2008年07月06日

欧米の心胆を寒からしめた薩摩と伊東祐亨 B

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 北洋艦隊提督・丁汝昌(ていじょしょう)

江戸末期から大東亜戦争にいたるまで、日本は常に国力や軍事力に差がある大国(英国・フランス・清・ロシア・アメリカ)と戦ってきた。

それらの戦争は、左翼史観が巷間に流布しているような、軍部の暴走で始まったわけでは決してない。尊皇攘夷以来、国民一人一人が当時の国際情勢を良く理解し、一貫して国家の安全と自衛のために富国強兵のもと、挙国一致で立ち上がったものだ。これらの国民世論は当時の新聞を見れば明らかなこと。そして、それは欧米列強が行ってきた植民地政策とは大いにかけ離れた戦争と言わざるをえない。


良く考えて欲しい。欧米が仕掛けた植民地戦争は、すべて国力と軍事力に圧倒的差がある小国に対してのみ行われてきた。しかし日本が獲得した朝鮮半島・満州・台湾は国際法に則り合法的に併合したものだ。しかも、それに関してどの国からも反対はまったくない。まして、日本のように植民地にインフラを整備し、その国民に教育を授けた欧米列強は皆無だ

端的に言えば、植民地を獲得するために国家が滅亡しては話にはならないと言う事だ。例えば、桟敷席にタダで居座りたいからと言って、屈強な相撲取りに無謀な喧嘩を挑む人はいないだろう。弱小国家日本の国民が苦渋のすえに決断し、国家の存亡をかけた自衛戦争だったと言うのが、それら戦争の本質なのだ。(東大を始めとする左翼系歴史家の歴史観は、共産主義に都合の良い歴史の摘み食いに過ぎず、丹念な史料研究から見えてくる歴史観とはまったく相容れない。)

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松島

さて、本題にもどり「異能の勝者」の引用から、伊東祐亨と日本海軍の足跡を追うことにしたい

日本は清国海軍力の脅威に対して、『イギリス・アームストロング社に巡洋艦「浪速」「高千穂」を発注する一方、「松島」「厳島」「橋立」を建造し、北洋艦隊の戦闘能力を凌駕することに成功した。「定遠」「鎮遠」の排水量には及ばなくても高性能と速射性にすぐれ、速射砲のほかに機関砲も装備した軍艦をそろえる、というのが、伊東祐亨を海上勤務組のトップとする海軍の狙いであった。』

『清国北洋艦隊との第一ラウンドは、9月15日午前11時半から行われた黄海海戦。「定遠」「鎮遠」を中心に左右に翼を張り出した形の凸横陣に構えた北洋艦隊に対し、連合艦隊は参謀島村速雄の提案した単縦陣の隊形から猛攻に移った。

その戦果は、4隻撃沈、喪失はなし。「定遠」「鎮遠」は満身創痍となって戦闘海域から離脱してゆき、祐亨は大艦主義よりも高速性と速射性を尊ぶ海軍の方が優秀であることを世界に証明してみせた。

そして、戦いの第二ラウンドは、山東半島北岸の軍港威海衛(いかいえい)の沖合いで明治28年1月30日に始まった(威海衛海戦)。「定遠」は、魚雷装備の水雷艇隊によって撃沈され、つづいて威海衛の砲台も完全に破壊された。

連合艦隊の本隊を出動させず、水雷艇隊のみを軍港に深夜潜入させて勝ちを制した海戦は、この戦いが世界海戦史上初である。薩英戦争以来、あまたの砲弾をかいくぐってきた祐亨とその幕僚たちの柔軟な発想力、前例のない戦いを成功させた海兵たちの練度の高さが察せられよう。』


[日清海戦の戦闘のデータ]

大日本帝國          大清帝国

[指揮官 ]
連合艦隊・伊東祐亨中将         北洋艦隊・丁汝昌

[戦力 ]
巡洋艦8               戦艦2
コルベット2               巡洋艦10
砲艦、他               水雷艇

[損害 ]
沈没艦なし,4隻大破             巡洋艦5隻沈没・大破
死傷者298名              死傷者850名


日本軍の武士道精神を世界が瞠目した事例は、枚挙にいとまがない。敗戦にいたるまで日本軍人は、どの国の軍人よりも国際法を遵守していたことは、日本のみならず各国の戦争資料を丹念に紐解けば、おのずと分かることだ。

NHKなどの戦争に関する討論会では、必ずといっていいほど中国共産党に洗脳された中国帰還者連絡会(中帰連)が出演し、いかに日本軍が中国大陸で残虐行為を働いたかという、中国共産党のプロパガンダを繰り広げているが、笑止と言わざるをえない。

しかし、左翼史観よりの報道機関と連係して、近代史に対する深い知識のない者への、このような中国共産党のデマやプロパガンダが、「中帰連」によって何度も繰り返されることで史実として定着していくことは、決して望ましいことではない。


中国帰還者連絡会に関するユーチューブ
http://jp.youtube.com/watch?v=RAdq0kAn24o

検証 旧日本軍の悪行(中帰連による偽り証言の検証)


この海戦でも、伊東祐亨は武士道精神を発揮し「北洋艦隊提督の丁汝昌が、敗戦の屈辱から毒杯をあおいで自殺したと聞くと、天皇の許しを得ずに分捕った運送船の一隻・康済号を敗兵たちに返し、丁汝昌の遺体を乗せて故郷へ送るよう命じた」という。しかも、余裕がなおあるのであれば、康済号には将士を乗せてもよい、とまで言った。


なお、『明治36年10月、海軍令部長としても海軍大臣山本権衛と非公式に会談し、対露海戦ともなれば東郷平八郎を二代目の連合艦隊司令官に指名する、と決めておいたのも祐亨であった』


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2008年07月04日

欧米の心胆を寒からしめた薩摩と伊東祐亨 A

日本海軍を育てた伊東祐亨の、薩英戦争後の戦歴は『明治維新人名事典』吉川弘文舘によれば「江戸薩摩藩焼き討ちの際、藩邸にあって血路を開いて品川沖に停泊していた薩船翔凰丸に乗船したが、幕艦回天丸砲撃を受けた。

このとき砲手として奮戦し兵庫に入港、兄・祐呂が副艦長をしていた軍艦春日丸に移乗した。明治元年正月、春日丸が幕艦開陽丸と阿波沖に戦ったときには、春日丸乗組員として戦闘に参加した」と言う。

海軍には薩摩藩の出身者が多く「薩摩の海軍、長の陸軍」と言われていたが、中村彰彦著「異能の勝者」によれば、伊東祐亨は、いつの間にか海軍を代表する人物となっていたようだ。以下、中村彰彦氏の著書を引用しつつ記述する。



明治10年代『当時の日本海軍はまだあまりにも貧弱であり、明治13年以降その旗艦とされた最新鋭の「扶桑」にしても排水量は三千七百十七トンしかなかった。対して仮想敵国である清国の北洋水師(北洋艦隊)には、明治17年にドイツ・フルカン社製の二大戦艦「定遠」と「鎮遠」が新規加入。

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清国北洋艦隊・「鎮遠」

これら両艦の排水量はそろって七千二百二十トンにも達しており、朝鮮の利権をめぐって清国と対立しつつあった日本は、いざ海戦となったところで海軍力における劣勢はまのがれがたい、という状況に置かれていたのだ。』


ちなみに、明治19年清の軍艦「定遠」と「鎮遠」が長崎に寄港した時、清国の水兵が市内で略奪・暴行を働いた長崎丸山事件を起こしている。当時清国は、東京湾から首都を砲撃し、九州ぐらいは植民地に出来ると考えていた。福沢諭吉の著述には、その砲撃を心配していた様子が書かれている。

中国人による日本人への侮蔑的態度と条約無視の姿勢は、通州事件など日本人への猟奇的虐殺を引きお越し、我慢に我慢を重ねた日本国民の怒りが頂点にたっして、条約を無視しし戦闘行為に走る中国(漢民族)から、共同租界地の日本国民および外国人を守るための自衛戦(上海事変)へと繋がっていく。


日本の歴史教科書は、意図的に上海事変にいたる経緯を記述せず、一方的に日本が中国を侵略したと述べているが、それは大きな間違いである。

もし仮に、日本が中国を侵略したと言うのであれば、アメリカもまた同様に日本を侵略したと教科書に記述するべきであろう。どうも、日本の教科書を編集する出版社や著者は、いまだにゴロツキ同然の旧共産主義国家には頭が上がらないらし。

東大を始めとして、日本の歴史学者は、左翼史観の持ち主が、その主流だというのが、日本の現実だ。学閥に反する歴史観を述べることは、その後の教授昇格や就職にふりとなるため出来にくい。いわば医師と医局との関係のようなものだろう。これは日本にとって不幸なことと言わざるをえない


ついでに述べると、日本の歴史教科書にはあたかも、欧米列強に蹂躙された弱者の清国を、明治維新を成し遂げた強者の日本が植民地獲得のために戦争を仕掛けたと思わせる記述もあるが、実際には国力に5倍以上の差はあった。日清戦争で日本が清国に勝つまでは、欧米列強といえども軽々に「眠る獅子」と恐れられた清国に、全面的な植民地戦争を挑む度胸はなかった。

軍事力のデータだけでも、その差は下記のとおり。

清国
兵力       962,163人
大砲・機関砲     1、733門
軍艦 82隻    水雷艇 25隻
総トン数     8万5000トン

日本
兵力       240,616人
野砲・山砲など      294門
軍艦 28隻    水雷艇 24隻
総トン数     5万9106トン


このような、曲がりなりにも強国(清国)に日本が植民地戦争を仕掛けたと論じるエセ歴史学者は、太平洋戦争も日本が仕掛けたアメリカへの植民地戦争だと言うべきだろう。彼らのダブルスタンダードには辟易とさせられる。

posted by かたばみ at 17:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 偉大なる先人達 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月01日

欧米の心胆を寒からしめた薩摩と伊東祐亨 その@

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伊東祐亨

日本海軍の基礎を築いた伊東祐亨の元体験は、生麦事件に端を発する薩英戦争である。このとき彼は、沿岸砲台の一つで太鼓役を任じられ、参戦している。

この薩英戦争、中・高の歴史教科書では薩摩側の敗北だったと記述してある。しかし実際には世界の軍事専門家が最も重視する死傷者の数では、後に述べるようにイギリスの方が多い。それ以後、欧米各国に日本侮りがたしとの認識が広がった。日本のもつ潜在的な軍事力に、心胆寒からしまった欧米列強は、もはや軽々に殖民地戦争をしかけることは出来なくなったのである。

薩英戦争は、イギリス側の暴挙からその戦端が開かれた。以下、下記の二冊の書籍の引用を交えながら、伊東祐亨の経歴にそって日本海軍の足跡を追ってみたい。




英国側は、生麦事件の後処理の交渉中に、湾内に停泊していた賠償金より高価な薩摩藩の汽船3隻を拿捕して交渉の切り札とする。薩摩側はこの暴挙を敵対行為とみなし、ついに砲撃を決意する。戦争を仕掛けたのは薩摩ではなく、史実ではイギリス側からだったのである。

「薩摩藩首脳の砲撃開始の命令一下、各砲台が次々と火を吹いた。まず、東洋艦隊中、3番目の備砲、17門を誇るペルセウスに着弾、ペルセウスは、錨を切り捨てて逃げ出した。直後、拿捕した三隻を英艦隊は沈め、一旦、薩摩の砲撃の射程外で態勢を整え、単縦陣で湾の奥へと進出、アウトレンジからの砲撃をするとの予測を裏切り、十分に接近してからの砲撃で、薩摩側の砲座を一つ一つ破壊していった。嵐で海上が荒れていたためもあり、英艦は揺れて完全な性能は発揮できなかったが、それでも薩摩の旧砲は時間とともに沈黙していった。

 しかし、薩摩兵の志気は高く、英艦の全てに命中弾を与え、特に旗艦のユリアラスは、集中砲火を浴び、艦長ジョスリン、副艦長ウィルモットらが戦死した。



「夕刻には薩摩の砲台は全て沈黙し、英国側の勝利は確定した。日没後、英国艦隊は付近にあった船に火をつけ、鹿児島城周辺の民家に砲撃を加えるなどの乱暴を働き、武家屋敷と共に多くの民家が消失した。これらは、非戦闘地域への無差別攻撃であり、近・現代戦であれば明らかに戦時国際際法に違反した行為であることを付記しておく。

翌日、英艦隊は、まだ残っていた薩摩側の砲台を攻撃し、抵抗力を排除して停泊。応急処置をして錦江湾より撤退した。
 
薩摩側は、砲台と船舶のほとんどを失ったが、人的被害は5名の戦死と、13名の負傷。
英国側は、13名の戦死と負傷50名、後に7名が死亡してしまうので、戦死者は20名となる。そしてなにより、虎の子の艦隊が大きく傷つき、これを修理するにはインドまで回航せねばならなかった。

 これを見れば、薩英戦争の結果は、人的被害では英国の敗北であり、英国東洋艦隊をかなり長い間無力化した薩摩藩のその戦いは、悪くても引き分けといったものであった


posted by かたばみ at 17:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 偉大なる先人達 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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