2010年07月25日

「弥生人=渡来人」説の大嘘 @(病理学的・骨考古学・考古学遺跡・遺伝的見地からの否定)

私が学生時代には・・・弥生時代に大陸から多くの渡来人(弥生人)が日本列島に移住し、文化的に劣る縄文人を淘汰して、弥生文化を築きあげたと教わった。しかし、いまやこの縄文・弥生観は、誤った古臭い認識と言わざるを得ない。
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菜畑遺蹟・日本最古の水田跡(佐賀県)

各分野(遺伝学・古病理学・考古学等)の調査技術の進歩がもたらす最新データから、解明される古代史からは、朝鮮半島こそ逆に日本の文化や人的進出の影響を受けていたことが明らかにされている。

以下・・・散文風に「日本人のルーツの謎を解く」展転社・長浜浩明著を引用しつつ、「渡来人の大移住」「弥生人=渡来人」説の嘘を検証していきます。(ぜひ・・・心ある日本人の方には、日教組の自虐史観からの洗脳を払拭するためにも、この書籍の購読をお勧めいたします)

その@・・・「弥生人=渡来人」説の否定(病理学の見地から検証)

「成人T細胞白血病・ATLの患者やキャリア(東アジアでは日本人しかいない。中国・韓国には如何に調査してもまったく発見できない)の分布が九州や沖縄で圧倒的に集中していることから、ATLゼロの渡来人が北部九州に上陸し、稲作を始め、縄文人と混血し、人口が増加したのなら、その地のキャリアが真っ先に最小となるはずなのに逆に多くなっていると」言う点。

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菜畑遺蹟

「@ATLウイルスを持たない多くの渡来人が大陸や半島から渡来したのなら、わが国で最初に水田稲作が行われた北部九州や土井ヶ浜付近からゼロになるはずである。
Aだが、菜畑遺蹟のある佐賀、板付遺蹟のある福岡、土井ヶ浜のある山口県西部のあたりにキャリアが多く、対馬、隠岐の島、五島列島、長崎などはさらに高い感染率になっている。ついで多いのが近畿となっている。
B縄文人と渡来人との混血がキャリア減少の原因なら、渡来人が最初に上陸し、より早くから混血が進んだであろう、九州や近畿などの方が、関東や中部よりキャリアが少なくなって当然である。
C従って北部九州へとやって来た渡来人は少数だったし、子孫も少なかったと断ぜざるを得ない」



そのA・・・縄文人と弥生人の骨格の比較から「弥生人=渡来人」とする嘘。

骨格や歯型の比較から、「弥生人=渡来人」とする説には、重大なデータの欠落がある。それは、「縄文時代の終わりから弥生時代の開始時期にかけての、最も肝要な移行期の人骨がほとんど発掘されておらず、欠落していることである」

これを分かり安く例えれば・・・江戸時代から現在の日本人へと続く、「移行期の人骨データ」が欠落しているにもかかわらず、単に江戸時代の人骨と現代の日本人の骨格を比較して、アゴや頭骨・歯型・身長がまったく違うから、現代と江戸時代では人種が違っていると言っているに等しいぐらい馬鹿げた検証と説である。

戦後から今日にかけても、短期間のうちに、欧米化した食生活で日本人の骨格は、アゴが細く面長となり、ラングイ歯が増え、身長も高くなった。千年以上も隔たりがある縄文と弥生時代ならなおさら、骨格や歯の変化は大きい。

食文化の改善から言えば、栄養価の高い米作りは、日本の方が朝鮮よりも三千年も早い。(半島の米作りは紀元前1千年頃、すなわち今から約3千年前に畑作物として、栽培され始めた。日本の陸稲は6千年前の縄文時代にまで遡る。稲作は遺伝子の研究から、日本から朝鮮半島に伝播したことが、近年明らかになっている)

「縄文時代から弥生時代にかけては、日本の歴史上最も劇的に人々の生活が変わった時期である。農耕が本格的に始まり、主食もドングリからコメへと変わった。いずれにしても、新たな人々の流入が無くても当時の顔型や体つきの変化は十分説明が付くという点で渡来説とは真っ向ぶつかるものだ」

縄文人の食文化を補足すれば・・・縄文人は現代人が考えている程、狩猟に頼り原始的な貧しい暮らしをしていたわけではない。むしろ世界四大文明よりも、海の幸山の幸や農作物に恵まれ、四大文明より約三千年も先に発明された世界最古の縄文土器に代表されるように文化的にも、豊かな生活を送っていた。

菜畑遺蹟では「コメ以外にも、アワ、ソバ、大豆、などの穀物類に加えて、メロン、ゴボウ、栗、桃などの果実・根菜類も栽培していたことが判明した。中でもメロンが縄文後期に栽培されていたことは大きな驚きだった。さらに平成元年の発掘で儀式に用いたと思われる形のままの数頭のブタの骨が出土し、ブタが家畜化されていたことを裏づけた」 尚、この遺蹟からは石包丁、クワ、カマ、などの農機具、甕、壺、スプーン、フォーク、などの食器類などなどが出土している」


朝鮮人は、スプーンの作り方を日本人に教えてやったと自慢するが、「朝鮮なる国が体を成してしない3千年以前から、当時の人々はスプーンを使っていた」これはスプーンに限らず、漢字や鉄器などにも言えることだろう。

ついでに言えば・・・3世紀になっても、先端技術である鉄器の製造技術でさえ朝鮮人は倭人に劣っていた。(3世紀の倭人の刀剣は鍛造で作られていたが、朝鮮半島ではまだ鋳造で製作していた)

鍛造と鋳造では刀剣の強度が格段に違う。例えて言えば・・・木刀とガラスの剣で剣道の試合をするようなもので、鋳造製の剣は鍛造製の剣にいとも簡単にへし折られてしまう。

武器に、これ程の差がある事からすれば、倭人にとって朝鮮半島に進出することぐらい、いとも簡単なことだ。(半島南部に倭人の文化が多いのは、この事実・武力の差を裏付けるもの)



そのB・・・考古学遺蹟から見る「弥生人=渡来人」説の嘘

日本最古の水田跡がある佐賀県の「菜畑遺蹟は渡来人が最初に入植したムラではありえない。何しろ、縄文人の人たちのムラである証拠は山ほどあるが、シナ大陸から渡来人がやって来たという証拠は皆無なのだ。証拠に基づいて語れば話は逆で、縄文時代から九州の人たちは朝鮮半島南部に進出し、日本との間を行き来していた」

「北九州に成立した水田稲作文化は急激に東へ波及し(中略)。その波及には、多くの大陸伝来の要素が欠落しており、まさに縄文文化の中に稲作だけが持ち込まれた状態を示している。また、この地域では土偶・石棒のような縄文文化独特の精神的道具を保持しているのである。従って、この稲作の波及には渡来人の関与はなかったと考えるのが妥当であろう」


「北部九州から漢代の大陸系集落や土器・生活用具が出土したと言う話など聞いたことがない。つまり、大陸から渡来人がやって来たと言うのは単なる推測であり、物的証拠は相変わらずゼロである」

考古学的資料から導き出される結論は・・・渡来者の数は1年に2〜3家族ほどパラパラと来た程度であり、縄文人=弥生人の社会の片隅で細々と暮らし、やがては文化的にも人種的にも倭人に吸収されていったという考古学的事実である。

縄文時代に、地理的・人種的・文化的・言語的に倭人としてのアイデンティティーを確立し、大陸から独立した文化を形成した倭人の歴史に、渡来人の関与は殆どなかったと言える。



そのC・・・遺伝子から見た「弥生人=渡来人」の嘘

これについては、説明が長くなりますから前述の著書を参照してください。ただ、倭人(縄文・弥生人)が朝鮮半島南部に進出していた根拠をDNAデータから記述しておきます。逆ではなかったのです。(朝鮮半島から来た渡来人より、倭人の方がはるかに多く半島に進出していた)

「これまで、朝鮮半島と縄文人との関係について考えられることは殆どありませんでした。それは朝鮮半島からは縄文時代に相当する時期の人骨が殆ど出土していないためで、人類学者はその関係を考える資料を持たなかったのです。
その結果、これまでの人類学の理論は、弥生時代になって急に朝鮮半島との間に交流が生まれたような印象を与えるものでした。しかし、DNAの相互検索の結果を見る限り、朝鮮半島にも古い時代から縄文人と同じDNA(大陸には存在しない)を持つ人が住んでいたと考えるのが自然です。

考古学的な証拠からも、縄文時代の朝鮮半島と日本の間の交流が示されています。縄文時代、朝鮮半島の南部には日本の縄文人と同じ姿形をし、同じDNAを持つ人々が住んでいたのではないでしょうか」


つまり・・・まだ朝鮮半島に殆ど人が住んでいない縄文時代に、北部九州から縄文人は海を渡り、朝鮮南部に進出し、稲作の伝播や縄文弥生土器などの半島出土品から見られるように、半島南部に倭人文化をもたらしたことは否定しようがありません。


余談ですが・・・これからは、韓国・朝鮮の学者が、歴史を文献(日本書紀や魏書など)の恣意的解釈で捻じ曲げたり、あるいは左翼歴史学者が「渡来人の大量移民があった」とする結論ありきの前提で、大陸の歴史に合わせて、遺蹟の年代を繰り下げる(捏造する)という分けには行かないだろうと思います。

彼らが歴史を捏造し、それを政治利用し、あるいは在日朝鮮人による不当な利権獲得の道具としてきた過去を思えば、考古学的データの分析技術の進歩は、日教組教育により誤った歴史認識を植えつけられてきた戦後世代への啓蒙に、大いに寄与することだと思います。
posted by かたばみ at 17:27| Comment(18) | TrackBack(0) | 偉大なる先人達 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月13日

縄文人は朝鮮半島に進出していた。

最近の考古学や遺伝子の研究から、朝鮮半島より早くから稲作(日本では縄文時代、約6千年前から陸稲が栽培されていた。今日では遺伝子の研究から、稲は日本から朝鮮半島に伝播したことは周知の事実です)を行っていた縄文人が、約千年を掛けてその食生活の変遷から、骨格が大きく変貌し、弥生人へと身体的特徴を変えて行ったことが分かってきました。また遺跡の発掘調査からもこのことが裏づけされています。

今日の考古学では、最近の発掘資料から、弥生時代に大陸から渡ってきた渡来人は、年に2,3家族ていどでしかなく、シナ大陸や朝鮮半島から「渡来人が大挙して押し寄せてきた」というのは、遺伝子研究や発掘資料の少なかった過去のデータからの誤った認識だったと考えられています。

繰り返して言えば・・・最新の遺蹟の発掘調査から分かった事柄は、渡来人の数はごくわずかで、倭人の歴史に影響を与えるほどではなく、縄文人や弥生人の社会の隅で共存しながら細々と暮らし、やがて倭人に人種的にも文化的にも吸収されて消えてなくなったという事実です。

したがって、弥生人=渡来人が稲作を持ち込み、縄文人を駆逐していったとの説は誤り。実情は、「朝鮮半島からのボートピープルが見たものは、500年以上も水田耕作を行い文化的にも進んだ倭人(弥生人)の社会だった」と言うことです。

世界の四大文明より数千年も早く土器を作り、これまた最古の漆器を発明して人類の食文化に画期的変革をもたらし、世界では新石器時代にしか存在しない磨製石器を旧石器時代に作り上げた縄文時代の日本はまぎれもなく、文化の先進的地域でした。

時代を下っても同様で、弥生人(倭人)は朝鮮半島南部にまで進出し、倭人文化(糸魚川のヒスイ製勾玉、前方後円墳など)を持ち込んだことは考古学的事実です。

だから・・・古代の中国の文献に「新羅や百済は、倭国が大国だから朝貢している」と書かれているのでしょうし、数代にかけて新羅の王は倭人だったと言う事実があるのです(これは朝鮮最古の歴史書・三国史記に書かれています)。

参考・・・【三国史記】は、高麗17代仁宗の命を受けて金富軾らが作成した、三国時代(新羅・高句麗・百済)から統一新羅末期までを対象とする紀伝体の歴史書。

縄文人から引き継がれた日本人特有の遺伝子が、朝鮮半島にもあるのは、倭人の半島南部進出で原住民との混血が進んだからです。百済など朝鮮半島南部の朝鮮人が、倭人の文化的政治的影響下にあったことは否めない事実なのです。


古代日本と朝鮮に関心のある方は・・・下記の書籍を読んで見られることをお勧めいたします。

【日本人ルーツの謎を解く―縄文人は日本人と韓国人の祖先だった!   長浜 浩明 (著) 】
http://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%84%E3%81%AE%E8%AC%8E%E3%82%92%E8%A7%A3%E3%81%8F%E2%80%95%E7%B8%84%E6%96%87%E4%BA%BA%E3%81%AF%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%A8%E9%9F%93%E5%9B%BD%E4%BA%BA%E3%81%AE%E7%A5%96%E5%85%88%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F-%E9%95%B7%E6%B5%9C-%E6%B5%A9%E6%98%8E/dp/4886563430/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1278905863&sr=1-1

第1章 司馬遼太郎・山本七平の縄文・弥生観は失当だった。
第2章 縄文時代から続く日本の米作り。
第三章 縄文・弥生の年代決定に合理的根拠はあったのか
第4章 反面教師・NHK「日本人はるかな旅」に学ぶ
第5章 もはや古すぎる小山修三氏の「縄文・人口推計」
第六章 机上の空論・埴原和郎氏の「二重構造モデル」
第7章 統計的「偽」・宝来聡氏の「DNA人類進化学」
第8章 ためにする仮説・中橋隆博氏の「渡来人の人口爆発」
第9章 「Y染色体」が明かす事実
第10章 言語学から遡る日本人のルーツ

posted by かたばみ at 11:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 偉大なる先人達 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする