2011年07月25日

縄文時代の日本と朝鮮の比較

縄文時代の年代をウィキペディアから引用すると。約1万6,500年前(紀元前145世紀)から約3,000年前(紀元前10世紀)と言うことになる。

日本列島は、今からおおよそ1万年前に最後の氷河期が終わり、その後の温暖化による縄文海進も終わりをつげ肥沃な三角州や沖積平野が出来上がった。また日本列島のブナの森(縄文の森)が、世界で最も早く形成された。

大雑把にいえば、縄文時代とはこのような時代である。


さて本題に入ると・・・縄文人は定住生活を送っていた。縄文人の定住は縄文研究者にとっては、40年もまえからの常識だったが、三内丸山遺蹟の発掘でそれが確たるものとなった。

つまり・・・朝鮮半島にほとんど人が住んでいない時期に、日本ではすでに定住生活をしていた。(それは左翼的自虐史観が語る狩猟採集経済で非定住という、原始的な姿とはまったく異なっている)


当時の朝鮮半島のような非定住社会と縄文人の定住社会の違いはなにかと言えば、それは以下のような差である。

考古学者渡辺仁氏によれば「非定住な暮らしをしているとどうなるか。人が死んでもあちらこちらに埋めて次に移動してしまう。建物に、大きな建材を使わない。仮設的なものか、あるいは運んでいけるような軽量建材を使う。モンゴルのパオとかゲルのようなもの。あるいは、移動するたびに木を入手して作る。ゴミはあっちこっちに捨てていってしまう。

反対に定住するとどうなるか。立派な建物を建てることが可能になる。石皿とか石棒とか土器を使うようになる。ゴミ場(貝塚のような)が必要になり、墓が必要になる」


縄文時代の日本は木造建築の技術も相当進んでおり、長浜浩明氏の著書によれば「木造建築の先進性の証拠として、1万2千年前から弥生時代まで続いた富士山の桜町遺跡から、精巧な木組みを用いた4千年前の高床式建物が出土した。この事実から、高床式建物は稲作と共に渡来人がもたらした、なる説も誤りであることが確定した。そして約35センチを単位とする尺度があったとも考えられ、奈良の法隆寺や東大寺の技術基礎はこの時代から育まれていたのである」という。

【桜町遺跡】
http://inoues.net/ruins/sakuramachi.html

つまり・・・その文化的差は明確である。


縄文人の定住は、鹿児島県の「掃除山遺蹟」や「かこいノ原遺蹟」のように、縄文草創期(一万年以上前)にまでさかのぼる。そして上野原遺蹟の早期にはすっかり安定した村の営みが軌道に乗っていたのがわかる。

gaiyou-ziorama[1].jpg
【掃除山遺蹟】

それに伴って・・・日常の生活品が発達し、縄文前期の青森・野辺地の向田遺蹟では、、なんと薄さが5ミリの木製品の鉢が出土している。高知県の居徳遺蹟では、日本独自の発明品・漆まで塗っているものが数多く出土している。

東京都の下宅部遺蹟から出てきたスプーンには、透かし彫りがあって、しかも赤い漆がぬってある。

(稲畑遺蹟では、クワやカマなどの農具とともにスプーンやフォークなどなど多くの食器類が出土)

木製品などの有機質の遺物は酸性土壌の中では、腐食するが、日本ではそれが次から次へと出てくる。つまり、それだけ生産量が多いということでもある。

その一方、朝鮮半島はというと・・・「厳しい氷河期の数十万年の間、朝鮮半島の旧石器時代人は、洞窟生活が殆どで、狩猟・漁労の採集が生業でした。やがて温暖な沖積世になると、海岸線が上昇して、今日とほぼ変わらない朝鮮半島を形作ります。しかし未だ、打製石器の使用ですから、新石器時代といえるのか疑問です」とある。
 
考古学者によれば、その時期の朝鮮半島にはほとんどまともな発掘資料がない。それを裏返せば、人があまり住んでいなかったという事。だから、その頃の人々がどのような暮らしをしていたかもよく分からない。

参考・・・旧石器時代の遺蹟数、日本列島5000箇所に対して朝鮮半島はたったの50箇所。(朝鮮半島では新石器時代と呼べるものがないほど短い。従って朝鮮の石器時代とはそのほとんどが旧石器時代である)

蛇足ではあるが、その頃の比較的発達していた南中国でも、小林達雄氏によれば、「南中国で今発見されている、一万年クラスと言っていますけど、その石器とか骨角器の貧弱なこと。とてもじゃないけど、日本の草創期に太刀打ちできません」「日本は、旧石器時代の終わりから縄文草創期にかけての遺蹟の密度はすごい。遺蹟の密度が人口に正比例するとは限らないとはいえ、大まかにはほぼ比例する。日本列島は人口密度が高かった」とのこと。

中国でさえこの程度、ましてや朝鮮半島と日本では比較にもならない



また、日本の縄文時代では栗やメロンなどの栽培がされ、灰汁ヌキとかフグの毒ヌキや犬の飼育などが発達している。身に着けるアクセサリーの種類も豊富だった。

(稲による農耕が縄文時代から、始まったことは今日広く知られている)

人種的にいえば・・・日本列島が大陸から切り離されてから、大陸からはほとんど新たな人の移住はなかった。(この根拠は以前に書いたが、過去の歴史学者の渡来者や縄文人の人口推計のデタラメさについては、「日本人ルーツの謎をとく」で明確に指摘されている)

縄文中期までに、縄文を代表する栗の栽培が海を越えて北海道石狩低地帯にまで及び、晩期にはオホーツク沿海岸にまで達している事実などから検証できるように、その頃には倭人としての文化的・人種的統合が成立していた事が判明している


(倭人固有のアクセサリー・けつ状耳飾などは、その傍証の一つ)

ケツ状耳飾.jpg

また言語から言えば、「沖縄、津軽海峡を含めて一つの文化圏を成している。言語が通じるから行ったり来たりしているんです。ところが、宗谷海峡を通って樺太にも行っているんですが、一度も手を結ばない。また、朝鮮海峡については、対馬は日本より半島よりなのにもかかわらず、対馬は日本側です。その文化圏の根底にあるのは、言葉の問題です」と述べられているように、この頃にはすでに単一民族としての倭人がすでに存在していた。


かたや朝鮮半島といえば・・・大陸からの人種の移動が絶えず、固有の民族は生まれていない。またその言語も固有のものはまだなく、地域地域で倭人やシナ人、北方民族や土着民族の言語が話されていた。

(ちなみに私は・・・縄文時代から朝鮮南部にまで影響力のあった倭人の言語(日本語)が、朝鮮語の文法に強い影響を与えたと考えている。
なぜなら、一万年以上も前に氷河期が終わり、閉ざされた日本列島で、南方の海や北のサハリンなどから入ってきた人種が混ざり合い、倭人としてのアイデンティテーが確立しつつあつた時期、つまり日本語の揺籃期に朝鮮半島からの影響力はほとんどなかったからである。
約1万2千年前から7000年前もの間、朝鮮半島はほぼ無人だったことが、考古学調査から判明している。それ以後も人口はそれほど増えていない。
たった200語しか残っていない古朝鮮語をもってして、数万は残っているだろう大和言葉が、朝鮮語由来だというウソ(言語データとして不十分で成り立たない学説)を唱える朝鮮人学者や最近ではコンピュータを使って調べたという、とんでもなくお馬鹿な東大のご用学者まで現れる始末だが、実際は朝鮮語が日本語の起源なのではなく、実態はその真逆なのだ)


日本の教科書の歴史教育では・・・ある時期から突然朝鮮文化(百済や新羅)が出現したかのような錯覚に襲われる。それも無理からぬことで、実際朝鮮半島の文化は、他民族の力を借りて突然出現したと言っても過言ではないからだ。朝鮮ではその建国から他民族に依存していた。

その頃の朝鮮半島は、中国の文献にあるように「倭人・シナ人・百済や新羅のルーツであるツングース系扶余族など北方民族、そして土人」とが混在していた人種的にはこの土人と呼ばれる人々が朝鮮人のルーツである。

百済や新羅では、倭人やシナ人など他民族がいわば支配層であり、土民はその下に位置する。これらの国々の建国はそのほとんどが他民族によるものである。

今では広く知れ渡っているように、新羅の建国にはその建国当時から倭人が関与しており、またその国王は数代にわたり倭人であった。百済や新羅は、そのルーツがツングース系扶余族であり、これを朝鮮人のルーツとするのは無理がある。例えて言えば・・・モンゴル帝国に支配された朝鮮の高麗が、自分たちのルーツはモンゴル人だと言っているような実に馬鹿げた話だ。

このように国家の成立さえ他民族に依存してきた朝鮮と、大陸とはまったく違う独自の文化圏を形成してきた古代日本と、どちらが先進性が高いかは比較するまでもない。かって朝鮮は日本より文化が高かったと、平気でウソをつく朝鮮民族のデマを決して信じてはならない


参考文献

「縄文人の生態ー住居の安定性とその生態学的意義」
「世界史の中の縄文」
「考古学から見た日本人」
「海を渡った縄文人」
「発掘された日本列島」
「日本人ルーツの謎をとく」
 その他
一部、インターネット


posted by かたばみ at 12:08| Comment(1) | TrackBack(0) | 偉大なる先人達 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする