2009年04月23日

中国への古代東南アジア文化と西アジア文明の影響

日本の歴史を考える場合、まず中国から文明が伝わったと教えられます。しかし太古からの文明の伝播を考えるとき、果たして本当に【中国が起点】でいいのでしょうか?

以下・・・雑学風に思うまま、取りとめもなく書いて見たいと思います。


現生人類・ホモサピエンスは今のヨーロッパやレバント地域(地中海沿岸)に到達するより先に、オーストラリアに殖民して壁画を描くなど進んだ石器文化を既にもっていました。

ホモサピエンス.jpg
(日本人はるかな旅展・ホモサピエンスの世界進出より地図のコピー)
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/1/1-14.html

この事実を知らない人は結構いるようですが、その海岸狩猟民族のルートはアフリカの悲しみの門(バブ・エル・マンデブ海峡)を通り、アラビア半島の南の沿岸からインドの海沿いに、当時(6万5千年〜8万年前)は比較的陸続きだった今のカンボジアやインドネシア沿岸を経由して、オーストラリアに達するというものです。

人類の足跡10万年全史の著者 S・オッペンハイマーに拠れば、モンゴロイドが派生した大まかな地域は、大雑把に言って現在のミャンマーの当たりのようで、そこからモンゴロイドの南北分岐が始まったとのこと。

当時の地形と現在の地形は、かなり違いがありますが・・・約6万年前にモンゴロイドは、ベトナム・タイ・ラオス・ミヤンマー辺りからメコン川やエヤーワディ川など幾つも北に上る川伝いに北上し、揚子江の源流から下降に掛けて広がり、また一方で台湾から南西諸島を経由して日本列島にまで至り南モンゴロイドとなりました。

その一方でモンゴロイドの別派は、バングラデシュあたりから西回りに川を北上してバイカル湖を経由し、アムール川流域からシベリア全域やサハリンあるいは日本列島にまで達して、北方モンゴロイドとなったようです。

(ちなみに・・・ミトコンドリアの分類から、北方モンゴロイドと南方モンゴロイドの大まかな分布の境は、いまの中国揚子江をその境界としてるようです)

S・オッペンハイマーは、現生人類がその後インド洋沿岸からオーストラリアまで広がっていった速さから判断すれば、最初の現生アジア人は、祖先が東アフリカに住むようになってから7万年のあいだに、何度もイカダや船でわけなく渡っていただろうと言っています。

つまり・・・旧石器時代や新石器時代は、中国大陸よりも東南アジアの方が先に開けていて、航海技術の発達した先進地域だったのです。


日本史では、必ずと言っていいほど文明や文化の伝播は中国を起点に置いて記述されています。しかし、それでは、中国と言えども西アジアの影響を強く受けて発展してきたという、西から文化や文明の伝播があるにも関わらず、その流れを断ち切り、中国が独自に文化や文明を築き上げてきたかのような誤った錯覚にとらわれてしまいがちになるのです。

(日本でさえ正倉院には、西アジアからの宝物が数多く保管されています)
正倉院.jpg
正倉院

仮に王権の成立期が文明の一尺度だとすれば、西アジアのシュメールは紀元前約3200年前で、エジプトの古王国が約3000年前、インダス文明が約2700年前で、中国の殷はそのずっと後の紀元前1600年前に過ぎません。ユーラシア大陸の端から端までの距離を考えたとしても、千年単位での時間軸で人と物の移動を考えれば、東西の交流は活発であり、先進的文化が西から東進してきたことは否めない事実でしょう。

【シュメール人は、約5,500年前に世界最古の楔形文字を発明し、会計記録などを残していました。これは殷墟から出土した甲骨文字より約4千年も前のことです。

また彼らは、灌漑農業を発達させ、60進法や太陰暦を使用し、天文学や数学などの実用的な学問を発達させていました。これらが数千年の時をへて陸路や海路から中国に伝播していったことは容易に想像できます。

(ちなみに私は・・・旧人類からホモサピエンスが石器文化を引き継ぎ、その文化がアフリカから世界各地に広がったように、「文字の概念」も西アジアから伝播し、甲骨文字の成り立ちに関わっていたのではないかと考えています。

シュメール文字が発明されてから、その後次々とオリエント地方で文字が作られていく過程を考えれば、十分ありうることだと思います。文字の概念さえあれば、ハングルやチベット文字などのように、ほんの数人でまったく新しい文字を考案することは容易なのです)】




閑話休題・・・最初の現生アジア人の子孫でもある縄文人は黒潮を利用して、台湾や南西諸島伝いに日本列島にやってきた現生人類の航海技術を継承し、日本各地に広がり世界最古の縄文土器や同じく世界最古の漆器(現在では漆が日本で生み出されたというのは考古学の発掘と年代測定でほぼ確定的です)などによる煮炊きという食文化や様々な装飾品を生み出して、当時としては世界に類を見ない多様で優れた文化を築きあげました。

これらは、むしろ日本から中国に伝わったものでしょう。


日本で食料採集段階である縄文時代が、世界でも類を見ないほど長く約15000年も続くのは、縄文の森や海の実り豊かな自然と決して無縁はありません。その自然は今も日本列島に息づき、私たちの心を育みそして豊かなものにさせています。


その頃の日本と朝鮮との関係はどうかと言えば、以下のようですね。

考古学者・小林氏によれば・・・「縄文の場合、津軽海峡を含めて一つの文化圏を成している。言葉が通じるから行ったり来たしているんです。ところが、宗谷海峡を通ってカラフトにも行っているのですが、一度も手を結ばない。また、朝鮮海峡については、対馬は日本より朝鮮半島寄りなのにも関わらず、対馬は日本側です。その文化圏の根底にあるのは、言葉の問題です」と言っています。

広開土王碑文.jpg
広開土王碑文

つまり、縄文時代から明確に日本人と朝鮮人は民族が違っていたということです。対馬が朝鮮に属さないというのは、広開土王碑の記述にあるように朝鮮半島の南側が古代から日本の影響下にあった事実を証明する物の一つでしょう。


posted by かたばみ at 09:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 偉大なる先人達 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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