2010年09月08日

朝鮮語の起源は、縄文人の言語

最近、「日本語の起源は百済語」という韓国の学者のトンデモ本を書店で見かけました。この著者・・・気は確かなのでしょうか? 
何故なら、百済語なる言語に関する文献は、朝鮮半島はおろか、中国や日本の古い書物にもまったく存在しません。

そもそも、訓民正音創製(1443年)以前の古代朝鮮語(百済語ではない)なる物ですら、誰にも分からないのです。
(国家の品格の著者・藤原正彦氏によれば・・・現在、古朝鮮語は200語ほどしか残されていないそうですね。)

(朝鮮民族は、縄文時代からはぼ人種が固定化され長い歴史を持つ日本民族とは異なります。直近でもモンゴル人の支配を受け、混血が進みました。言語の変遷も相当なものでしょう)

韓国の学者の論拠は、古事記など古い大和言葉と、さらに時代を何百年も下った朝鮮語に、たまたま似通った言葉があるからというだけの、馬鹿馬鹿しい屁理屈に過ぎません。また、百済という国名があるから、百済語が存在したはずだというのは、邪馬台国という国があるから、邪馬台国語があったというようなもの。朝鮮半島で話されていた新羅や百済の言葉に明確な違いが在るのか、方言ほとの差なのかさえも分からないのです。
 無から有を生じるのが得意な、朝鮮民族とは言え、呆れるばかりです。

これはむしろ、逆だったのだろうと思います。
以前に「朝鮮半島からは、縄文時代に相当する時期の人骨が殆ど出土していない」と考古学資料から引用したように、縄文人は朝鮮半島に住む民族がまだ少ない時期に、「朝鮮半島・東三洞の貝塚から出土した九州の縄文土器をよく見ると、形や文様が九州本土から出土する縄文土器と微妙に異なることが分かってきました。おそらく、九州から渡っていった縄文人が、その周辺で長期滞在して記憶がうすれたか、2世が土器を作ったために、九州にない九州の縄文土器になったのでしょう」・【発掘された日本列島2007(文化庁編・朝日新聞)】とあるように、半島南部に進出し、縄文土器などの先進的文化を持ち込み定住していました。

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東三洞の貝塚

(ちなみに、その頃の日本は木造建築の技術も相当進んでおり、長浜浩明氏の著書によれば「木造建築の先進性の証拠として、1万2千年前から弥生時代まで続いた富士山の桜町遺跡から、精巧な木組みを用いた4千年前の高床式建物が出土した。この事実から、高床式建物は稲作と共に渡来人がもたらした、なる説も「誤」であることが確定した。そして約35センチを単位とする尺度があったとも考えられ、奈良の法隆寺や東大寺の技術基礎はこの時代から育まれていたのである」という)

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桜町遺跡


以前にも書いたように、日本人は縄文時代にはすでに、言語・文化・人種・地理的にも倭人としてのアイデンティティーを確立していました。
(中国の文献には、倭人の言語が、他の民族とハッキリ区別できるとの記述が見えます。その中国は、今世紀にいたるまで、山を一つ越えると、言語が異なる多くの異民族同士が、集まって暮らしている砂のような国家でした。これは、日本統治以前の朝鮮半島でも言語的には似たようなものです。


その、朝鮮半島に定住し、また、時代を下っても尚、朝鮮半島に、大きな影響力を持ち続けた縄文人(倭人)の言語が、それ以降の朝鮮半島に大な影響を与えない分けがありません。

日本語と朝鮮語の語順など文法が似通っているのは、この縄文人の言語的影響が大きいのでしょう。
(現代でも、朝鮮語の約90%が日本語で、それを朝鮮式に発音しただけであり、その影響は朝鮮民族がまったく自覚していないほど自然に溶け込んでいます。

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【追記】

そもそも、日韓併合以前の朝鮮半島では南北、あるいは地域によって異なった土着言語が使われており、標準語(現在の朝鮮語)そのものが存在していなかった。

また支配者層である両班は、マンダリン(中国の公用語である官話)を使用し、土着の朝鮮語を蔑視していた。

現在の朝鮮語なるものは、朝鮮総督府(日本)によって、釜山周辺で使われていた日本訛りの朝鮮語を基礎にして作られたものだ。

その際、文法や語彙に欠損の多い朝鮮語を補うために、文法体系としては日本語の橋本文法 (学校文法)、語彙としては現在の中国語の約80%を占める和製漢語(日本語)が使われた。

だから、現在使われている朝鮮語は、日本語と文法や単語が共通していても当たり前なのだ。

結論をいえば・・・現在の朝鮮語なるものは日本語のサブセット言語、つまり亜種である。




参考(朝鮮半島への、倭人の影響力の範例)

@『三国史記』新羅本紀にあるように、「新羅より南方を一貫して”倭地”として扱っているのは、そこでは、倭人・倭種が政治の主導権を握っていたと見るほかはない」・・・(日韓がタブーとする半島の歴史)

A「新羅の4代目の王・解脱とその子孫の新羅の国王が倭人だった」・・・新羅本紀

B「新羅も百済も倭国を大国と見ている。優れた品々が多いためで、新羅も百済も倭国を敬仰し、常に使節が往来している」・・・中国の正史・「随書」
posted by かたばみ at 12:14| Comment(10) | TrackBack(0) | 偉大なる先人達 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
日本語の起源が朝鮮と言うのは間違いだと思う、中国から輸入した文字文化だと言われてる

百済は、中国文化圏じゃなかったかな?
百済が中国語を使ってたんで、中国の文化だと言われてる
そうだとしたら、文字文化が似ていて当たり前だと思う

平成三年七月、佐賀県大和町の東山田一本杉遺跡から出土した弥生前期末の甕棺から、インド人考古学者ポンナムバラム・ラグパティ博士が紀元前三世紀頃まで南インドの土器に描かれていたグラフィティという古代文字と同じ物を発見してる
紀元前二五〇〇年から紀元前三〇〇年頃に使われていたと思われる古代シュメール文字やバビロニア文字、ギリシャのピロス文字、中国の甲骨文字のルーツと思われる文字が、西日本一帯において見つかってる

古代文字がだて来るのは、貿易を行っていたと考えられ
朝鮮に日本の文化が入っても変じゃないけど、縄文人のD2系統の遺伝子は、韓国ほぼ0%です。
Posted by at 2012年07月25日 01:11
柳宗悦から学ぶもの(1)

「飛鳥〜奈良時代ごろにつくられた国宝<寺院 仏像 書画など>は韓国の国宝とも言える」と柳宗悦は述べている。現在の日本人がこのような言葉に触れると驚いてしまい、一体、柳宗悦は何者かと色眼鏡で見るであろう。名前からして日本人らしくない、韓国人なら言いそうなことだと軽くいなすかもしれない。一方、大和朝廷を形成し「日本」という国号をつくったのは主として百済人であるということを知っている人ならば、柳宗悦の説を二言なく認めるだろう。

柳宗悦のみならず、松本清張の「日本の古代文献は古代朝鮮語で書かれている」、司馬遼太郎の「平安時代までの日本の文化は外国のものである」などについても、「素人の松本や司馬が言っていることなどあてにならない」と一笑にふす人がいるけれども、日本の言語学者はハングルの勉強をあまりしていないと言われている。勝手なことを言っていると思うかもしれないが、日韓語の比較研究の結果、日韓語が同系語ではないということについて明解な考察を述べた著書を見たことがない。

日本の言語学会では、「日韓語の類似語はあまりにも少ないので同系語ではない」が定説になっているようである。また「学会で認められなければ世間が認めるはずがない」という声をネットで見る。近年「日韓語の同系性」について最も真剣に取り組んでおられる著書は『日本語と朝鮮語の起源』(白帝社 塚本勲)である。氏以外の言語学者はハングルの学習をしていないために、日韓語の比較研究などできないのかもしれない。塚本氏は、日本で唯一の『朝鮮語大辞典 全3巻<角川書店>』の編集主幹で、大阪外国語大学教授を停年退官しておられる。塚本氏の見解がいかなるものであるか、別の記事で紹介したいと思う。

「日韓語は同系語ではない」という主張が「とんでもないもの」であることに気づかない学会の定説は噴飯物である。このような大きなミスを平気で語るのは、飛鳥〜奈良時代ごろの日本人は朝鮮からの渡来人で占められていることを知らず、殊に、朝廷にかかわっている人々は百済人を主軸とする上層階級のインテリであったことを知らないからである。

当時の人々を、日本にいるから日本人だと解釈すればそれきりのことであるが、アマゾンの奥地に住む裸足の土着民もブラジル人、台湾の原住民アミ族も台湾人である。ところが、奈良時代ごろの日本人の90%以上は朝鮮人そのものであり、アミ族が台湾人であると称するのとは意味が違う。何といっても当時の人口に占める渡来人の割合の高さ、殊に、文化そのものが朝鮮のものであるということは、台湾の文化はアミ族の文化によって築かれたと言うのとは意味が異なる。ブラジルのアマゾン川流域の土着民はブラジル人であると言っても、彼らがもつ文化はブラジル文化とかけ離れている。弥生時代の文化を象徴する「弥生式土器」、古墳時代の文化を象徴する「須恵器」は明らかに朝鮮文化を象徴するものであり、当時の「倭国文化=朝鮮文化」として容認されているものである。

 縄文晩期の人口は多くみて十万人ぐらいであったというから、それらを日本列島に散在させれば各地域の人口はスズメの涙ほどになる。縄文人は東北などを中心に日本の東部に多かったと言われているので、九州〜関西地方の人口はさらに少なかったに違いない。縄文時代のわずかな人口は、「消え行く人種」のごとき運命をたどり、弥生時代の朝鮮渡来人の急激な増加以来、倭国の人口と文化は一変し朝鮮化したのである。対馬海峡があるとはいえ、対馬、壱岐の二つの島が往来を容易にし、隣国意識を超えた一体感をもたせる環境が整っていた。

 従って、朝鮮の「政治」「文化」「民族(人種)」・・は倭国(日本)において恐ろしいほど同一性のまま展開していったのである。飛鳥〜奈良時代の日本の住民と朝鮮の住民を二極に分類する考え方には、「こじつけ」「無理」「隠蔽」・・などが陰のごとく執着している。古代の大豪族「漢氏(あやし)」「秦氏(はたし)」は出自を隠蔽するために、中国の「漢(カン)」「秦(シン)」の系統のものであると吹聴していたという話があるがまんざら嘘ではないだろう。

 石田英一郎は『日本文化論』で「日本文化の源流は弥生時代である。すなはち、日本人の祖先は弥生時代から始まる。」と述べ、古代アジアの研究者 笠野剛は「弥生文化は朝鮮半島から波及してきた新しい文化である。その文化の特徴は弥生式土器・鉄器・銅器・稲作・機織などがセットになったものである。日本文化の基礎はここから始まった。」と述べ、「悠久の昔から存続している縄文時代の原住民・朝鮮渡来人」と「弥生時代の朝鮮渡来人」を区別している。両時代のあいだには、区別するだけの明白な文化異変が見られるために、縄文を弥生という時代名に変えたのである。

 さらに、古墳〜飛鳥〜奈良時代へかけて、朝鮮人の倭国への大移動(大移住)はますます激しくなり、縄文時代から存続している倭人(原住民)は朝鮮人によってすっかり占拠されてしまった。朝鮮と倭国の交易など、言葉上はいかにもふたつの国の異なる民族が交易しているよう思われるが、実際は同じ人種同士が隣の県の人と商いをする感覚で実行されていたのである。日本列島に住む人々の90%以上は、アイヌ・エスキモー・中国人・南方からの漂流民・タミール人などからなる異人種の構成員(混成員)ではなく、朝鮮半島から移住した同一人種であった。

 小山修三、森浩一、埴原和郎、小山修三などの人口問題に関する考察、統計によれば、日本列島における人口の中身は、縄文人(子孫)主導の流れによるのではなく、弥生時代から始まる朝鮮渡来人の急激な流れによって形成されていることがわかる。渡来人の移動(移住)は、弥生時代から倭国全体へ広まってとどまることを知らず、その流れは古墳〜飛鳥〜奈良時代へ早瀬のごとく突入していった。殊に、百済のハイクラスの王族・高官・僧侶などを中心とする人々が突如として日本へ大移動(移住)したときから、「世界レベルの文化遺産が雨後の竹の子のように出現」したのである。

 
Posted by 大蔵正治 at 2012年12月09日 11:50
柳宗悦から学ぶもの(2)

 要するに、奈良時代の国宝級の文化遺産は、縄文人の血をひく純血種が先進国朝鮮のインテリの指導を受けて生み出したものではない。このことを認識しなければ、今後いつまでも間違った古代史を語り続けるだろう。柳宗悦、松本清張、司馬遼太郎は真実に鋭敏で、臆面もなく真実を語っている。松本清張が「日本の古代文献は古代朝鮮語で書かれている」と言っているのは、素人の軽はずみな考えから出た言葉ではなく、偉大な文豪にあらずして発することができない勇気ある名言である。松本氏だけが「とんでもない」ことを言っているのではなく、松本氏と同じ古代史を語る人はいくらでもいる。

 松本清張のような素人に何がわかるか」などと豪語している方がおられるけれども、「清張通史5」を見ただけでもわかるのは、松本氏は素人などと軽視されるような人物ではないということである。松本氏は「清張通史5」の最終ページで「蘇我氏の研究は、ほとんど日野昭氏が主としておこなっている観がある。蘇我氏の研究では、「主流派」ともいうべき東京大学、京都大学、または早稲田大学などの教授たちに本格的な論文がないのである。」と書き、その後に続けて、「未だに日本書記による蘇我馬子の抹殺が響いているためだろうか」と述べている。わずかこの一言で、松本氏が古代史についての偉大な研究者であることがわかる。

Posted by 大蔵正治 at 2012年12月09日 11:56
柳宗悦から学ぶもの(3)

 日本の古代研究家(学者)、言語学者はこれらの偉大な方々の姿勢を見習うべきではないだろうか。学者ではないけれども、古代日本語の源流、日本民族の成り立ち、大和朝廷の成立について学者以上に研究し、総合的に、鳥瞰図的に古代史を眺めている司馬、松本、金達寿、柳宗悦などの勇気と洞察力に頭がさがる。学者でなければ当てにならないという石頭は進歩を阻害し、「素人の松本が云々」などと軽視して得意になっているお方は、何かの偏見に妄執しておられるのではないだろうか。

Posted by at 2012年12月09日 12:02
古代における倭国の人口

縄文晩期の人口は多くみて10万人ぐらいであったというから、それらを日本列島に散在させれば各地域の人口はスズメの涙ほどになる。縄文人は東北などを中心に日本の東部に多かったと言われているので、九州〜関西地方の人口はさらに少なかったに違いない。

小山修三(文化人類学者 国立民俗学博物館名誉教授)、森浩一(歴史学者 同志社大学名誉教授)らの論考によれば、弥生時代末期の倭国の人口は約60〜100万である。縄文約一万年に対して弥生時代は約600年間だから、比べものにならないスピードで人口が増加している。埴原和郎、小山修三などのシミュレーションによる統計によれば、縄文晩期の日本の人口は「約7.5万人」であったが、弥生時代における渡来人の増加により、原住民と渡来人の人口比は「約1対9.6」になったという。縄文人と渡来人の混血によって人口が増えたという説もあるが、『岩波日本通史』の第一巻「日本人の形成」に、「縄文人と渡来人との混血はなかった」と述べられている。

弥生文化の源流は朝鮮にあり、倭国の住民の90%以上が朝鮮人であったという。学芸員による講演会で、弥生時代、朝鮮半島と倭国とのあいだで貿易が行われていたという話を聞かされる。その際に「朝鮮半島の人」と「倭国の人」が別系統の人々であったかのように話が進められ、日本列島の住民は縄文時代の子孫(原住民)であったという錯覚を起こさせる。ところが、当時、朝鮮と倭国の区別はなく中国地方と四国を区別するに等しかった。

日本文化の源流は弥生時代である

石田英一郎は『日本文化論』で「日本文化の源流は弥生時代である。すなはち、日本人の祖先は弥生時代から始まる。」と述べ、古代アジアの研究者 笠野剛は「弥生文化は朝鮮半島から波及してきた新しい文化である。その文化の特徴は弥生式土器・鉄器・銅器・稲作・機織などがセットになったものである。日本文化の基礎はここから始まった。」と述べている。つまり、「縄文時代の悠久の昔から存続している原住民・朝鮮渡来人」と「弥生時代の朝鮮渡来人」を区別している。両時代のあいだには区別するだけの明白な文化異変が見られるために、縄文を弥生という時代名に変えたのである。 

日本の焼き物は「縄文式土器」から始まり、その連続線上に「弥生式土器」や「須恵器」が生まれたと思いがちだが、「縄文式土器」と「弥生式土器」のあいだには大きな断絶があるという。「縄文式土器」の「火焔土器」などからもはっきりわかるように、「縄文式土器」は一見して非常に異質な感じのものであり、誰が見ても「弥生式土器」とは一線を隔す性格をもっている。すなはち、縄文時代と弥生時代のあいだには、異種の文化が顕著に存在している。朝鮮半島と日本列島は隣接しているので、縄文人を構成した人々の中に、朝鮮からの渡来人がいなかったはずはないが、弥生時代は時代名を変えるだけの文化異変をもたらした人々によって形成されたのである。
Posted by 村田哲雄 at 2012年12月09日 18:06
「日本の文化」はいつから日本らしくなったか

孔子は紀元前(BC551〜BC479)の思想家であり、彼の言行録「論語」が弟子たちによって漢字で書かれているので、BC5世紀の中国では漢字が相当広く使われていたと推測される。従って、紀元前後頃、高句麗が朝鮮の北方を制圧したころには、漢字が大きな勢いで朝鮮半島に伝播しており、高句麗の上層階級には漢字の読み書きができる人が多かった。しかし、漢字は象形文字であったために、言葉の表記に際して極めて不便な文字であった。現在、世界で最も原始的な文字は漢字であると言われているくらいだから、漢字は発明当初から極めて非合理な文字であったと言える。従って、朝鮮に浸透していた北東アジアの言語(アルタイ諸語)の表記にとっては不都合であった。漢字は記録文書(文献)の作成に大きな貢献をしたが、象形文字に伴う非合理性のため、朝鮮諸国のアルタイ語(方言)が中国語化(例外を除く)することはなかった。

仏教が中国に伝わったころ、サンスクリットによって書かれた経典は読めなかったので、中国の僧侶たちは漢字の音を利用してサンスクリット語の経典を写した。しかし、漢字は意味が表面に顕在化しているので、このような表記は現代人が見ても不思議な言葉(表現)に見える。

朝鮮には文字がなかったので、記録(文献)を残すために漢字が使われるようになった。しかし、漢字では母語の表記ができなかったので、中国の経典表記をまねて漢字の音を利用して表記した。この表記方法には「吏読表記(リトウ〜)」や「郷札(ヒョンチャル)」があるが、ここでは話題によく取り上げられる「吏読表記」を代表的な表記方法としておく。

戦乱が多かった朝鮮では古代の文献が消失したり、王の側近が過去の歴史を隠滅するために文献を意図的に焼却したという説がある。従って、現在、朝鮮の古語を知ることができなくなっている。しかし、日本で書かれた「万葉」「記紀」は、朝鮮渡来人によって「吏読表記」で書かれたと言われ、すなはち渡来人が「吏読表記」を続行して用いたものが「万葉仮名」であるという。

文字もなかった倭国に、「万葉」「記紀」のような高度な芸術作品が突然生まれたということは、当時、漢字を駆使できた渡来人が生み出したとしか考えられない。「万葉」「記紀」以前の日本には、まとまった文芸的作品がないことからしても、突如として生まれた「万葉」「記紀」は、大和朝廷にかかわって漢字を駆使していたエリートが書いたものとしか考えられない。このことについて下記の著名人は次のように述べている。

1「記紀」「万葉」その他の古代文献は古代朝鮮語で書かれている。(松本清張)

2 飛鳥(日本の政治・文化の中心地であった)は朝鮮文化をぬきにして語れない。(司馬遼太郎・金達寿)

3 百済から亡命したばかりの高官・鬼室集斯が文部科学大臣になったということは、言葉の問題がなかったことを意味している。(佐々克明)

4 宮中では百済語が使われており、「古事記」「日本書紀」は百済の学者により吏読表記(万葉仮名)で書かれている。(金容雲 日韓文化交流会議の韓国側代表・画家の平山郁夫は日本側代表)

5「日本書紀」は百済人を主軸にして書かれ、天皇・藤原氏の都合がいいように整理されている。(上田正昭・司馬遼太郎らによる対談集)

6 韓半島の言葉の上に、飛鳥・奈良時代の日本語は形成されている。(李寧熙韓国日報論説委員 国会議員 韓国女流文学人会会長)

7 古代朝鮮語と日本語は同じである。「大日本地名辞書」の「地名総説」
Posted by 藤原誠治 at 2012年12月09日 18:19
東大の江上波夫教授が1949年に「大和朝廷は半島を南下した松花江付近の扶余馬賊と河内豪族」の合作であると証明しました。ミッシングリンクという未証明の存在すべき遺跡が未発見であるが今後発見されるであろうとの条件はありましたが、これは在日ファンタジーの基礎になりました。江上教授によると古事記も日本書紀も、馬賊朝廷の本家金官伽耶を唐との戦争で失った時に、倭を古来からの本家と摺りかえて神話と説話を捏造編纂したのであると、日本の記紀より400年後に編纂された朝鮮三国史記でもって証明されました。日本の国名も元々最初に扶余馬賊が伽耶から対馬、壱岐、筑紫を征服した時に日韓併合国馬賊朝廷の首都である洛東江西岸の金官伽耶を日本府と命名した、それを後になり大和朝廷をも日本と呼ぶようになったのであります。∴天皇家は騎馬民族扶余の征服王朝であり、証明できる遺跡はこれからも見つかり続けると宣言されました。日本を征服した馬賊は鄂爾多斯(内蒙古のゴーストタウンで汗廟有り)の遊牧民で、満州農耕馬に対馬海峡を泳いで渡らせ、日本全土を征服する基盤を筑紫に作ったのです。でありますから、「日本は日本人だけのものではなく、馬賊と朝鮮人のもの」であります。「尖閣島嶼も日本が盗んだと言われても抗弁できないと元日本総理大臣の鳩山隠れ朝鮮人が明言しました。鳩山の嫁は正真正銘のキーセンでありますから朝鮮人であります。
縄文イモ堀り文化は騎馬民族のもたらした稲作弥生文化とは別ものであると江上教授は力説しておりました。
出典:江上波夫の日本古代史(東京大学)
Posted by 馬富山由紀夫 at 2013年08月17日 16:29
延々と意味のない事コピペしてるねw
結局結論だけでエライ誰それがこう言ってた、って話しだろ。そこに至る過程がすっとばされてるよ。
ほんと彼の国の人の特徴だよ
Posted by at 2014年10月14日 01:02
上の方々は、凄いファンタジーが頭の中にあるんだなー。1対9.6で今だに日本語〜
Posted by at 2016年10月20日 05:01
なんか、一生懸命書いている人がいるけど、
現代朝鮮語の漢字語と文法は90%以上が日本語由来。
一応述べて置くが、朝鮮語と中国語は学習した。
百済語は誰も解明出来ていない。
白村江と村主さんの読みで、村がsuki又はsuguと読まれていたと推察できる程度。
朝鮮語の古い文献は殆ど皆無。
郷歌?20数首しか残っていない不十分な文献。
4500首の万葉集とは比較の対象ではない。
万葉集は歴代の国学者が連綿と研究を続けたが、
朝鮮語を研究した朝鮮人学者は1880年以前は皆無。
民間人の私でさえ1500年前の和歌が暗誦できる。
「秋の田の・・・」以下略
Posted by at 2017年06月18日 09:25
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