2011年01月09日

中国文化の源泉は西アジア

今でも、日本など東アジア諸文明の原点が、中国文明にあると考えている人々は多いだろう。

この誤りは、文明の起源が世界四大文明(メソポタミア文明・エジプト文明・インダス文明・黄河文明)にあると言う仮説から刷り込まされた、一昔前に流布し考古学の知識が少なかった時代の古い概念に由来する。

【ウィキペディア・・・世界四大文明とは人類の文明史の歴史観のひとつ。 歴史上、4つの大文明が最初に起こり、以降の文明はこの流れをくむとする仮説。四大河文明とも言う】

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(メソポタミア地域)

これも一昔前、人類は諸大陸で同時発生的に誕生したとする説が主流だった。この人類同時発生説と密接にリンクしたのが、四大文明説だった。しかし、今ではDNAの解析などにより、人類の起源はアフリカにあることが判明している。これは文明の発達にも同じことが言える。

文明は人類の到達した足跡に沿って、つまりアフリカに近い地域から発達し、遠くへと伝播して行った。

分かりやすく上記の世界四大文明を例にとって大雑把に述べれば、まず紀元前9000年頃、アフリカに近いメソポタミア地域にシュメール人が移住し世界最初の農耕が始まると、メソポタミア文明が起こり灌漑技術生み出す。その後数千年を経てエジプト文明が誕生し、それら文明の影響を受けたインダス文明から黄河文明へと文化が伝播し継承されて行くという道筋をたどる。

日本人は良く、農業技術(灌漑技術)や数学など諸々の文化が、中国を発祥の地だと勘違いをするが、実はそれら人類の転換期となった技術ほとんどが西アジア発祥なのだ。

少々脱線するが、文化の伝播の担い手である古代の交通交易網や情報網は、現代人が想像する以上に発達していた。それは、北アフリカや中近東地方の原産であり、その地で紀元前2000年頃に栽培が始まったメロンが、縄文時代後期の菜畑遺蹟で栽培されていたことからも分かる。

西アジアやアフリカからもたらされた文化の具体的な例をあげれば、先に述べたように農業はメソポタミアから、牧畜は約8千年前から北アフリカやメソポタミアなどで始まり乳製品が作られている。

金属の利用は、紀元前約7千年頃、西アジアと東南ヨーロッパで自然銅を溶融し鋳型に入れて生成する冶金方法が発明される。その後、銅に錫や砒素を混ぜて実用に耐える強度を持つ青銅がメソポタミアを中心にした西アジアで発明された。

鉄を精製する技術は、紀元前3000年頃の西アジア(北シリアのチャガール・バザール遺跡やバグダットのアスマール遺跡)から最古の鉄剣が出土している。青銅器同様にその精錬技術は中国を経て日本にまで達している。

【日本最古の鉄器についての余談・・・「弥生時代は、紀元前五世紀ごろに始まるとするのが通説。しかし、国立歴史民俗博物館の研究グループが発表した新説では、弥生時代のスタートとなる稲作伝来が、定説より約五百年早い紀元前十世紀ごろとする。九州北部で出土した土器などを放射性炭素(C14)年代測定の最新技術で分析した結果がその根拠となった。」(中略) 「しかし同県の曲り田遺跡から出土した鍛造の鉄斧(てつぷ)は、新説への疑問を投げかける。一緒に出土した土器からみて、紀元前五世紀ごろの日本最古の鉄器とされてきたが、新説に従えば紀元前十世紀近くとなる。中国では西周の時代に当たる。」(中略)「当時は中国でも鉄器の加工技術が十分に確立されていなかった」と弥生文化博物館の三木弘学芸員。「五百年さかのぼれば、日本が鉄器技術の最先端地だったことになってしまう」以下略・・・ 神戸新聞・2003/06/04)

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(石崎曲り田遺跡から出土した板状鉄斧)

しかし、縄文時代初期から中期にかけて、中国を凌ぐほどの文化を生み、世界最古の土器を高温で生成する技術を有していた縄文人(倭人=弥生人)からすれば、鉄の精製はそれほど困難な技術とも思えない。西アジアからの距離を考えれば、距離的に近い中国と日本に、ほぼ同時期(百年前後の差)に鉄器の技術が伝わり、日本で鉄斧が作られたとしても何の不思議もない。】


話を戻すと・・・成文化された最古の法典は、紀元前1,700年頃に発布されたハンムラビ法典である。(メソポタミアでは、それ以前にシュメール人やアッカド人達が法律を作り国をまとめていた。)この法典は、刑罰だけでなく、商法、財産法、家族制度、など人々の生活に関わる細かな分野にまで及んでいる。
中国最初の律令は、西晋が268年に制定した泰始律令である。律は刑罰法令、令は律以外の法令に相当する。これもまた数千年の時を経て、メソポタミアから中国に法の概念がもたらされたことは自明の理である。

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(ハムラビ法典)


外海を航行できる木造船には、船体の強度を増すための竜骨が不可欠だ。その竜骨は紀元前1500年頃に、地中海に乗り出すために優れた造船技術を持っていたエジプトで作られた。その後、この竜骨構造は東アジアなど世界各地に広がってゆく。

陸上の交通機関に不可欠な車輪は、紀元前3500年ごろのメソポタミアで発明され、急速に世界各地で普及した。

(古代においても先端技術は、瞬く間に各大陸に普及している。西アジアより数千年も早く日本で発明された土器(縄文式土器)などは、朝鮮半島を経て中国に製造方法が伝わり、西アジアにまで達した逆の事例だろう)

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(縄文式土器)

紙は、中国で後漢時代の蔡倫が発明したと言われるがこれは誤りだ。紙は前漢時代の遺蹟からも発掘されていて、そのルーツはエジプトのパピルスにある。パピルスの製造方法は、基本的な部分(植物の髄から出る粘液を利用して、繊維同士を接着するなど)で、紙と同じような製造方法を持つ。

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(パピルス)

世界最古の文字は、メソポタミアのシュメール人によって、紀元前3300年頃の文書(粘土板)に書かれた楔形文字である。文字で政治経済や文学などを記すというアイデアは、やがて中近東に波及し、そこから様々な文字の開発へとつながってゆく。その後約1500年を経て、文字のアイデアは中国に伝わり、それが甲骨文字誕生の切っ掛けとなったことは容易に想像できる。

文字は、抽象的な線に意味を持たせると言うアイデアさえあれば、ハングル文字(1446年に李氏朝鮮第4代国王の世宗によって作られた)やモンゴルのパクパ文字(1269年制定)のように、ほんの数人で生み出すことが可能だ。

ちなみに朝鮮のハングル文字は、高麗王朝時代に、その宗主国であった元(モンゴル帝国)のパクパ文字をヒントにして作られた歴史の浅い文字である。

その他、西アジアから中国へ伝わったものを記せばきりがない。宗教で言えばゾロアスター教の影響があり、また現代社会に不可欠な印鑑(印章)や時計(日時計、水時計)、ソロバンなどなどである。



過剰なまでに自己中心的な中華思想をもつ漢民族は、異文化の影響を受けてその文化が発展してきたという歴史を歪曲し捏造して恥じない。

中国大陸は古来より、西方から移住してきた多くの異民族が斑模様のように広がり、数多くの国家を築いていた人種の坩堝だった(追記参照)。

漢民族は、その西方からの異民族を「化外の民」と呼び蔑むが、その実、漢民族の歴史は異民族に支配され、その先進的な文化を取り入れてきたに過ぎない。


チベット侵略や南京大虐殺のように歴史を捏造し、嘘を恥ともしない中国や中国人の道徳観のなさは、何も今に始まった事ではないのだ。【村民3分の2に白人遺伝子 古代ローマ帝国軍の末裔か=甘粛省】

中国甘粛省驪?(れいけん)村の村民は背が高く彫りの深い顔立ちで、青い目に茶色の髪の毛をしている。それだけではない。このほど、同村の村民のDNA鑑定を行ったところ、約3分の2の村民が白人遺伝子を持っていることが判明した。11月26日付の英紙デイリー・メールが伝えた。

 DNA鑑定を主催したのは、先月6日、地元の蘭州大学とイタリアが共同で発足した「蘭州大学イタリア文学研究センター」。同センターは甘粛省驪?村の村民が2千年前のローマ帝国軍の末裔かどうかについての研究を進めている。

 「末裔説」を最初に提唱したのはオックスフォード大学の中国歴史専門家ホーマー・H・ダブス教授。紀元前53年、ローマ軍はパルティア軍とぶつかったカルラエの戦いに敗れ、第一軍隊がローマに戻らず神秘的に失踪したと伝えられている。ダブス教授は、失踪したローマ軍は東へ進む際に匈奴に捕まり、紀元前36年に驪?村に定住したとの説を50年代に発表したが、注目されなかった。2006年に中国で報道されたことで「末裔説」がやっと脚光を浴びることになった。

 「末裔説」を支える根拠に、驪?村の近くで発掘された永昌西漢墓が挙げられる。ダブス教授は、ここの被葬者は体格が大きく、眉骨が突出し、あごが四角いという特徴を持っていることから、ローマ帝国の兵隊の墓だと推測した。また、今回のDNA鑑定の結果は「末裔説」を証明するさらなる根拠になると期待が高まっている。「驪?」という村の名前自身も古代中国人がローマ人を呼ぶ言葉である。

 一方、今回の鑑定で明らかになった白人遺伝子は古代ローマ軍が残したものか、それとも、中国とローマを結ぶシルクロードを往来する人々が残したものかを判別することは難しいとの見解を示す専門家もいる。


【中国最古のミイラ 東西の混血と判明】

このほど、吉林省大学の科学者が、現存する中国最古のミイラのDNA研究を通して、東洋人と西洋人は、4千年前かあるいはもっと早くから血縁融合していたことを発見した。新疆ウイグル自治区小河墓地のミイラは混血であると判明。

 この結論は吉林大学遍彊考古研究センター古DNA実験室責任者、生命科学学院の周慧教授と研究チームによるものである。

 英生物学専門誌『BMCバイオロジー』に掲載された、吉林大学、新疆考古学研究所、復旦大学、米ペンシルバニア州州立大学科学者らが共同発表した研究結果によると、新疆小河墓地のミイラは混血であり、欧州とシベリアの遺伝標記を持っている。

 スウェーデンの考古学者が1934年に、新疆のタリム盆地付近の枯れた川底で墓地を発見した。その後、墓地は66年間消失し、2000年、中国の探検隊により再び発見された。

 考古学認定により、この墓地は上下合わせて5層の167の墓群からなっていることが明らかとなり、中からは大量のミイラ、動物の死骸、植物の遺物や副葬品が発見された。この墓の主はおよそ3千5百年から4千年前に死亡しており、現在発見されている墓としては最も古く、もっとも保存状態が良い。

 吉林大学の科学者は05年からこの墓地のミイラの遺伝子分析を開始し、4年以上の研究を経て20のDNAサンプルを摂り出すことに成功した。研究員らはミイラ達の大部分がアジア人群と西欧人群のDNAの特徴を備えていることを発見しており、アジア人群は主に中国北方やバイカル湖地区からのもの、西欧人群は欧州からのものであるという。

 周教授は、「新疆の古人類群は東洋・西洋人群の混合体である。このことは4千年前の文字による記載がない頃、東洋・西洋人の間ではすでに行き来や雑居が始まっており、血縁も結ばれていた事を物語っている」と、この地区のミイラのDNAには、すでに西洋遺伝子の特徴と東洋遺伝子の特徴が存在していることを解説する。 新疆地区は世界人群移動の歴史上で、最後の到達地点の一つに挙げられる。周教授は小河の早期人群は、南シベリア青銅期の人群と密接な関係があると推測している。混合の最初の発生地はおそらく南西シベリアのある地区であり、「西へ移動するアジア人と東へ移動する欧州人が出合い、彼らの間で婚姻の習慣が発生した。」

 過去、多くの人が新疆早期の住民は主に欧州人であるという認識を持っていた。また、今から2千年前、前漢の張騫が使節として西域に赴き東方と西方の文化交流が始まったという説も、世界的に認められている。


参考文献・・・発明の世界史(日本文芸社)他

posted by かたばみ at 12:12| Comment(2) | TrackBack(0) | 偉大なる先人達 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
いつも読ませてもらっています。縄文文明とシュメールとの関係をどのように感じていますか? 同じ判子の文化ですし共通性を感じています。
Posted by 天空 at 2011年01月15日 12:31
天空さん、こんにちは。このブログを読んでいただいているとのこと、有難うございます。

日々仕事に追われて、なかなかブログを更新したり、コメントへ返信したり出来ませんが、今後ともよろしくお願いします(笑)。

>いつも読ませてもらっています。縄文文明とシュメールとの関係をどのように感じていますか? 同じ判子の文化ですし共通性を感じています。

現在使われている技術の基礎は、ほとんどシュメールを中心にした西アジアで発明されたと言っても過言ではないと思います。

その原動力となったのは、恐らく異民族との過酷な競争(戦争などの摩擦が常に存在する社会)だったのだろうと想像しています。

それに対して縄文文化は、地理的にも孤立し自然に恵まれ、大陸と違って絶えず流入してくる異民族からの侵略を恐れることのない、ある種恵まれた環境でした。

だから、武器や交通手段より、食文化(土器や漆器や縄文クッキーのよう調理方法)の方が、発達したのでしょう。

アジア東西の文化の伝播や人的交流は、何千年も前から頻繁に行われていたようですが、文化の高低でいえばやはり西に軍配があがりそうで、日本もその恩恵(判子など)に大いに預かっていますから、シュメール人は縄文人の師とも言えるのでは。

少なくても縄文人が、メロンを食べることが出来たのは彼らの御蔭ですね(笑)


Posted by かたばみ at 2011年01月21日 19:16
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