2016年09月05日

「弥生人=渡来人」説の大嘘 B(渡来系弥生人という刷り込みと混血時期の問題)

貴方は、以下の朝日新聞の記事に違和感はないだろうか?

【縄文人の核DNA初解読 東アジア人と大きく特徴異なる】朝日新聞 神田明美 2016年9月1日19時28分

縄文時代に 日本列島 で狩猟採集生活をしていた縄文人の遺伝的特徴は、東アジアや東南アジアの人たちとは大きく離れていることがDNA解析でわかった。縄文人のルーツを考えるうえでの手がかりになりそうだ。総合研究大学院大学や国立科学博物館などのチームが、人類学の専門誌ジャーナル・オブ・ヒューマン・ジェネティクスに1日発表する。

 福島県北部の三貫地貝塚で出土した約3千年前の縄文人2人の歯から、細胞核のゲノム(全遺伝情報)解読を試みた。約30億個ある塩基のうち、約1億1500万個の解読に成功した。縄文人の核DNAの解読は初めて。

 世界各地の現代人のDNAと比較したところ、中国南部の先住民や中国・北京の中国人、ベトナム人などは互いに近い関係にあるのに対し、縄文人はこれらの集団から大きく離れていた。

 現生人類ホモ・サピエンスは、4万〜5万年前にアジア地域に到来し、その後、各系統に分かれたとされる。今回のDNA解読で、少なくとも1万5千年前よりも古い時期に縄文人につながる系統ができ、東アジアや東南アジアの集団は、別の系統の中から生まれたと考えられるという。

 日本人では、遺伝的にはアイヌ人が最も縄文人と近い関係にあり、沖縄の琉球人、東京周辺の人と続いた。

頭骨と歯の特徴から現在の日本人は、縄文人と、弥生時代以降に大陸から渡ってきた渡来人が混血して形成されたと、されていた。チームの国立科学博物館の神沢秀明研究員は「日本人が、縄文人と弥生系渡来人の混血という説が、DNA解読でも裏付けられた」としている。


三貫地貝塚・出土した人骨
三貫地貝塚・出土した人骨

その違和感とは「日本人が、縄文人と弥生系渡来人の混血という説が、DNA解読でも裏付けられた」という文言である。端的に言えば『混血の時期』と『弥生系渡来人』という造語、つまり弥生人は渡来人と思わせる刷り込みである。

近年の弥生時代初期の人骨発掘による研究では、弥生時代における遺跡からの渡来系と判別される人骨の割合の少なさが指摘されている。渡来人のルートである九州でさえ、弥生時代の人骨は縄文的形質をもつ者がほとんどである。

「縄文の生活誌」講談社・岡村道雄氏によれば「つまり、『弥生人』と呼べる人が大陸側にいて、日本列島へ多数渡来したわけではなく、縄文人が水田稲作や食生活などの変化によって形質が変化して弥生時代の人、すなわち弥生人になった。結論的には、少数の渡来人はやってきたが、『弥生人』はどこからもやってこなかった」と述べている。

また、大陸の影響を過大視し、弥生時代に大陸から進んだ文化を持った人々が数多くやって来て、農業を主とする日本文化の礎を築いたという認識で、歴史をかたる愚を犯してきたような気がすると述べ、「ようやく近年になって、縄文文化の実像の解明が進み、縄文見直し論的な風潮のなかで、日本文化の基層は、自然と共生して生きてきた縄文文化に求められるという理解が進んできた」と書いている。

結論をいえば、弥生時代に日本人のDNAに変革をもたらせるほど、渡来人との混血はなかったと言うことである。

「縄文人の核ゲノムから歴史を読み解く」神澤秀明(国立科学博物館)
read:http://www.brh.co.jp/seimeishi/journal/087/research/1.html
「二重構造説で指摘されていたことを、縄文人の核ゲノムを用いて直接的に証明した初めての成果である。」


この神澤秀明氏の誤りは、二重構造説の混血時期を弥生時代と思い込んでいるところだろう。当然ながら縄文人のDNA分析から、後の時代に生きる弥生人との混血までは解析できない。戦後の左翼歴史学の刷り込みを鵜呑みにしてきた医学又は理工学部出身の研究者と言ったところだろうか。

言うまでもなく、現代の日本人のDNAに最も変化をもたらした時期は、推定で240万人もの朝鮮人が移住してきたともいわれる朝鮮併合時であり、朝鮮戦争の混乱期に彼らが何十万人も日本に密航してきた戦後であり、国際結婚が進んだ今日に他ならない。その事実をスッポリ抜かして二重構造説を唱えるのは愚の骨頂というものではないか。

二重構造説をうんぬんするのならば、その混血の時期は近現代であると結論すべきである。

どどのつまり、弥生・縄文「二重構造説」を縄文人の核ゲノムから証明したとする結論の導き方のいい加減さが分かるというものだが、この記事からプロパガンダ的造語、『渡来系弥生人』なるものが、日本人のルーツであるとの間違った認識を植え付け、約1万5千年もの長い歴史を持つ縄文文化を、それより歴史の浅い中華文明を始めとする大陸文化の下位に位置づけようとする意図を感じるのは、うがった見方なのだろうか。



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2016年06月26日

「弥生人=渡来人」説の大嘘 A(骨考古学から見る弥生人/弥生人顔という刷り込み)

最近、骨考古学の立場から「弥生人=縄文人」を肯定する書籍を読んだ。
それが「骨が語る日本人の歴史」片山一道・ちくま新書である。

未だにネットでも、「弥生人=渡来人」だとの誤謬を目にするので、それに対する反証として参考にして欲しいと願う。

以下、骨考古学の立場から見た弥生人についての見解を少し引用させていただく。(日本人の成り立ちについて興味のある方は、是非購読して欲しい)

まず前提として、骨格からの復顔では、皮膚や目の色、頭髪や眉毛や髭の性状、耳ブタの大きさと形、唇の厚さだとか、まぶたの様子(一重か二重か)などについては、復元できないという事実を理解しておくべきだろう。
「よく博物館で見かける復顔像には、そんなことまでが当たり前のように表現されているのだが、それは一種の創造の産物でしかない。何らかのイデオロギーないし、思い込み、みなしの思考が込められている。あまり信を置かないほうが良い。」

つまりは、無垢な若者が学ぶ教科書に掲載されているような朝鮮人に酷似した弥生人顔は、実際の顔を正確に復元していないということだ。そもそも古代日本人の列島への流入経路は半島からだけではない。樺太や東南アジアからもある。それならば、東南アジアの人々のように、本来は二重かもしれないし分厚い唇をしていたかもしれないと考えるのが普通。

それを何故か朝鮮人に酷似した復顔にしたことに、私も左翼指導の戦後教育の隠された意図を感じざるをえない。


当然「朝鮮人似の細長くのっぺらとした骨格は、何故なんだ」との反論があるだろう。
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それについては、私も過去に書き、また本書も指摘しているのだが、弥生人の人骨については青銅器や鉄器文化の流入、稲作の普及などの食生活および生活環境の激変にともなう地域差と標本サンプル抽出の問題につきる。

「弥生時代の遺跡から出る人骨はけっこう多様であり、地域差や時期さが無視できない。」「この【弥生人】はニュートラルな呼び方である。弥生時代という時代を共有する人々という以外のなにものでもない。」

つまりは、プロパガンダ的呼称の【弥生人なる人種はいない】ということなのだが、繰り返せば、朝鮮人顔の問題はその地域差であり、プロパガン的弥生人の骨格サンプルの抽出の仕方である。

そもそも骨考古学が提示するように、弥生人の骨格は教科書に掲載されているような単一的特徴は持ち合わせていない。文化や生活環境にほとんど変化のない縄文時代と違い、弥生時代の日本人の骨格は七百年ほどの間に、地域地域でその生活環境や身分、従事する仕事に適応してかなり変遷している。

「実は、ある一部の地域を除くと、弥生時代の遺跡で発見される人骨の数は驚くほど少ない」「唯一の例外が、北部九州地域と土井ヶ浜遺跡がある地域である。」

「実際、この地域で見つかる人骨は、確かに縄文人骨との身体的特徴の違いが目立つ。ただ事ならざる数で出土、まことに残存状態も良いため、弥生時代の人骨の【代表選手】か【典型】のように取り扱われるものだから、この地域で見つかる人骨こそが【弥生人】骨なり、そして、縄文人の物とは大いに特徴を異にするなり、との論法が生まれたわけだ。でも、この地域は日本列島のごく一部でしかない。それに歴史的に大陸との玄関となってきたところでもある。そういう地理的・歴史的な条件を考慮するならば、この地域の人骨を日本列島全域の【弥生人】骨の無作為標本とみなすには躊躇せざるをえない。」

「ならば、北部九州地域や土井ヶ浜遺跡に遺骨を残した人々をもって、列島の弥生時代の人々の代表だとみなす思考は無理筋というもの」「その違いを根拠にして弥生人と縄文人とは顔立ちや体型が異なる。系譜がことなる。だから、前者が後者に置き換わったのだとか、かくして後の日本人が生まれただとか、そんな風に論じるのは、著しい論理の飛躍である。」


つまり、生活環境で骨格の激変した弥生時代には、現在の日本人のように、細長い顔の人もいたし、縄文人のような鼻筋の通った堀の深い顔もいた、というのが骨考古学的見解なのだ。

考えても見て欲しい、もし、渡来人なる弥生人が縄文人を駆逐し、生活環境が骨格に変遷をもたらすことがないとしたら、現代の日本人はほとんどが「プロパガンダ的弥生人顔」ばかりのはずだ。

人種置換説を唱える、御用学者は寝言も休み々言え。・・・というより一生寝ていて欲しいものだ。
(御用学者の渡来人の人口推移の出鱈目さやいい加減さは、「日本人ルーツの謎を解く」だったと思うが長浜浩明氏が指摘している通り。)

もうそろそろ「弥生人=渡来人=現日本人」なる妄想から抜け出て欲しい。

間違っても、当ブログに、以下のようなコメントは寄越さないでね。(せめて、低脳の根拠を示すか、大学教員など公職に左翼が多い理由、GHQによる公職追放ぐらい知っていて欲しいものだと願う。ネトウヨとのレッテル張りもかなり痛々しい。)

----------当ブログにきたコメント------------------------
「自虐史観も何も自分らが帝国期に蒔いた種なのにね・・・
ネトウヨは相変わらず低脳だ
だから大学の教授の座に付く者の少ないのだろう
古事記を鵜呑みにして?天皇のルーツが東南アジアってハプロを公開しなくても一発で弥生系の顔だって分かるんだが」
-----------------------------------------------------
参考・・・公職追放
公職追放によって政財界の重鎮が急遽引退し、中堅層に代替わりすること(当時、三等重役と呼ばれた)によって日本の中枢部が一気に若返った。しかし、この追放により各界の保守層の有力者の大半を追放した結果、学校やマスコミ、言論等の各界、特に啓蒙を担う業界で、労働組合員などいわゆる「左派」勢力や共産主義のシンパが大幅に伸長する遠因になるという、推進したGHQ、アメリカにとっては大きな誤算が発生してしまう。
posted by かたばみ at 09:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 偉大なる先人達 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月03日

【縄文・弥生二重構造説の嘘】 こうして日本史は捏造される

最近、日本人は縄文人と弥生時代の渡来人が混血して誕生したとする学説が、総合研究大学院大・斎藤成也教授らのチームによって発表された。

【日本人:アイヌは琉球人と近縁 DNA配列の解析で判明】
毎日新聞 2012年10月31日 21時46分(最終更新 10月31日 22時10分)
 

日本列島に住むヒトの集団の中では、北海道のアイヌは本土日本人よりも沖縄(琉球)人と近縁性が高いことを、総合研究大学院大学の斎藤成也教授らのチームがDNA10+件配列の個人差を大規模解析して突き止めたと発表した。

チームは最初に日本列島に移住していた縄文人と弥生時代に来た渡来人が混血を繰り返して現在の本土日本人が生まれ、北海道と沖縄の集団は渡来人の影響をほとんど受けなかったとする学説を裏付ける成果と主張。1日付の日本人類遺伝学会の英文誌電子版に掲載される。

日本に招かれたドイツの病理学者ベルツが1911年、アイヌと琉球人には身体的な共通点があることを指摘し、現在も議論が続いている。
チームは東京大学のグループが80年代に北海道平取町のアイヌから提供を受けた血液36人分や、沖縄で採取された琉球人の血液35人分に含まれるDNA10+件を分析。すでに公開されている本土日本人243人のDNA10+件のデータと合わせ、配列の個人差を1人あたり60万カ所程度比較した。その結果、アイヌと遺伝的に最も近いのは琉球人で、本土日本人はアイヌより琉球人や韓国人と近いことが分かったという。【斎藤広子】


この「現代日本列島には旧石器時代から日本列島に住む縄文人の系統と弥生系渡来人の系統が共存する」という、二重構造説は、眉唾物ものと言わざるをえない。

というのも、母集団のサンプル調査が適正に行われていないからである。

(この発表は、左翼史観に基づいた学術的プロパガンダの一つなのだろうと思わざるをえない。なぜなら、このような統計学上の初歩的な誤りを理系の人間が犯すはずがないからだ。真偽のほどは分らないが、斎藤成也教授には在日朝鮮人寄りのサンプル調査をするとの風評がある。)

ゲノムの抽出は現代人からのものであるが、「縄文人(倭人)の系統と弥生系渡来人(シナ・朝鮮人)の系統が共存する」とまで言及するのであれば、その抽出標本は縄文時代と弥生時代の人骨からでなければ、二重構造説や人種置換説の根拠とはなりえない。

そもそも、日本人の遺伝子の多様性は、弥生時代以前の旧石器時代における南北モンゴロイド移住に始まっている。
縄文時代の服装.jpg
(縄文時代の服装)

つまりゲノムの解析からは、斎藤成也教授の言うように「現代日本列島人は、縄文人の系統と、弥生系渡来人の系統の混血であることを支持する結果を得た」と、人種の混血時期を弥生時代と特定したり、縄文・弥生時代の人々が異なる人種であると認定することまでは出来ないのだ。

弥生時代の服装.jpg
(弥生時代の服装)

また、現在の日本列島には、明治以来、清朝末期や朝鮮併合あるいは朝鮮戦争時にシナや朝鮮から多くの人々が渡来、あるいは密航し、帰化あるいは在日として本土に住み、かつ日本人との混血も進んでいる。その人口密集度は東京や大阪、広島など都会ほど高い。つまり今日では、都会ほど大陸系の遺伝子が混入している割合が高い。

ちなみに1990年における人口動態調査では、結婚総数の約28組に1組が国際結婚。2004年では18組に1組。 東京都における国際結婚の割はほぼ10組に一組。

結論をいえば、国際結婚などによる混血化が進んでいる現代人のゲノムからのサンプル調査では、現在日本列島に住んでいる人々と大陸系の人々の遺伝子の繋がりはある程度分るが、「縄文人の系統と弥生系渡来人の系統が共存する」とまで、判断することはできない。

しかも、本土日本人のサンプル数が243人と、統計学上母集団の数としてはお話にならないぐらいの少なさだ。データの取り方(帰化人の多い地域などでの)次第でいかようにも、その結果が変わる極めて曖昧な代物である。

ゲノム母集団の抽出が、根底から間違っていれば、その後の分析がいくら正確でもまったく無意味である。

仮に、二重構造説や人種置換説が正しいのであれば、弥生人の生活様式(日用品)が、そのルーツであるはずの朝鮮半島や中国大陸の遺跡から見つからなければならない。

春秋時代の諸国.png
(春秋時代の諸国)

しかし実際には、弥生文化は日本以外に見られず、かつ周や春秋時代などの大陸系渡来人の生活用品や物資は、日本列島から出土していない。この考古学的事実こそが、二重構造説を否定するものに他ならない。



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(西周)

閑話・・・この発表に対する同じ毎日新聞の記事【発信箱:縄文か 弥生か=青野由利(論説室)】では、「日本人は韓国人や漢民族ともはっきり分かれるというから驚きだ。」と解説し、【日本人:アイヌは琉球人と近縁 DNA配列の解析で判明(斎藤広子)】では「その結果、アイヌと遺伝的に最も近いのは琉球人で、本土日本人はアイヌより琉球人や韓国人と近いことが分かったという。」と解説しており、相変わらずのパラノイアぶりを南北コリアが大好きな毎日新聞は発揮している。



以下・・・参考文献

【プレスリリース】日本列島3人類集団の遺伝的近縁性
http://www.soken.ac.jp/news_all/2719.html

【研究概要】
 国立遺伝学研究所集団遺伝研究部門(総合研究大学院大学生命科学研究科遺伝学専攻教授兼任 )の斎藤成也教授、東京大学大学院医学系研究科人類遺伝学専攻分野の徳永勝士教授、東京大学大学院理学系研究科・理学部の尾本惠市名誉教授を中心とする研究グループは、日本列島人(アイヌ人、琉球人、本土人)のゲノム解析により、現代日本列島人は、縄文人の系統と、弥生系渡来人の系統の混血であることを支持する結果を得た。
 これまでの遺伝学的研究では、アイヌ人と沖縄人の近縁性を支持する結果はいくつか得られていたが、決定的なものではなかった。今回、研究グループは、ヒトゲノム中のSNP(単一塩基多型)(注1)を示す100万塩基サイトを一挙に調べることができるシステムを用いて、アイヌ人36個体分、琉球人35個体分を含む日本列島人のDNA分析を行った。
 その結果、アイヌ人からみると琉球人が遺伝的にもっとも近縁であり、両者の中間に位置する本土人は、琉球人に次いでアイヌ人に近いことが示された。一方、本土人は集団としては韓国人と同じクラスター(注2)に属することも分かった。さらに、他の30人類集団のデータとの比較より日本列島人の特異性が示された。このことは、現代日本列島には旧石器時代から日本列島に住む縄文人の系統と弥生系渡来人の系統が共存するという、二重構造説を強く支持する。また、アイヌ人はさらに別の第三の系統(ニブヒなどのオホーツク沿岸居住民)との遺伝子交流があり、本土人との混血と第三の系統との混血が共存するために個体間の多様性がきわめて大きいこともわかった。
 日本列島における人類集団の遺伝的多様性を明確にすることは、人類学的観点のみならず、ゲノム医学にとっても大きな意義がある。将来は、これら集団間の表現型の違いとゲノムの違いを結びつけることが期待される。

【発信箱:縄文か 弥生か=青野由利(論説室)】 毎日新聞 2012年11月02日 

「縄文系のモデルさんはすぐ見つかったのに弥生系が見つからなくて」。人類学者の馬場悠男(ひさお)さんから苦労話を聞いたことがある。国立科学博物館で「縄文VS弥生」展を企画した時のこと。プロの女性モデル10人を面接したら、みな「濃い顔」の縄文系。2度目の面接でやっと「彫りの浅い」弥生系に出会ったというから、現代人は「縄文好き」らしい。

「自分はどっち?」と思うかもしれないが、多かれ少なかれ混血だ。定説は、「縄文人が住む日本列島に弥生人が渡来。遺伝子が混じりあったが、北海道と沖縄ではその度合いが少ない」。最近、日本のチームが発表した「アイヌ民族と琉球の人が遺伝的に近い」という論文もこの説を支持している。

結論は「やっぱり」だが、インパクトを感じたのは最新技術の力だ。個人差のある遺伝子型60万種類を分析。グラフ化すると遺伝的に近い集団がまとまり、一目でわかる。日本人は韓国人や漢民族ともはっきり分かれるというから驚きだ。
「無罪主張に転じたのは科学技術の進歩で鑑定が可能になったため」。マイナリさんの冤罪(えんざい)事件で東京高検が述べている。だが、その結論を得るのに人類集団を分析するような高度な技術はいらない。技術のせいにするのはお門違いだ。

むしろ、今回の論文をみると、技術はもっと先に進んでいて、やがて遺伝子分析で人種までわかりそうな気がしてくる。とすれば、さらに注意深い使い方が必要になる。検察はもちろん、遺伝子知識のバージョンアップは社会全体の課題だ。

ゆくゆくは遺伝子のデータからモデルを選ぶ? 妄想と科学の距離は案外近いかもしれないのだ。
posted by かたばみ at 17:55| Comment(9) | TrackBack(0) | 偉大なる先人達 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月03日

世界最古の土器は、日本か中国か。

私は以下の中国から出土した土器の年代に関して、後述の三点において、その信憑性を疑わしく思っております。


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【湖南省道県玉蟾岩遺跡】
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<世界最古1万8000年前の土器発見…中国・湖南省>
(2009年6月3日23時29分 読売新聞)

中国湖南省の洞窟(どうくつ)で世界最古となる約1万8000年前の土器が発見された。

当時は、最後の氷期がピークに達していた寒冷な時期。土器製作は氷期のピーク後、
徐々に暖かくなる中で生活の場を広げた人類が始めたとする従来の見方を覆す発見だ。

米ボストン大学や北京大学などの国際研究チームが米科学アカデミー紀要の最新号に発表した。

これまでに青森県やロシアなどで1万数千年前とされる土器が発見されているが、
古い土器の年代分析は難しく、年代値の信頼性などで議論があった。

今回は40以上の試料をもとに正確な分析を行い、日本やロシアの土器よりも少なくとも1500年以上古いことが分かった。土器製作の南中国起源を裏付けるという。

研究チームは2005年までの発掘で、土器2個以上に相当する多数の破片を発見。
復元された土器の一つは、高さ約30センチの円すい型と推定されている。

年代は、土器片に付着した有機物や地層中の炭、動物骨を材料に、 放射性炭素の含有量を調べて決定した。

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その理由の一つは、中国は歴史を捏造しても恥じない国家だということです。

(国民党の工作員として『戦争とは何か』を書き、南京大虐殺をデッチ上げたティンパリーの事例を見るまでもなく、中国は欧米人を道具として使い、その虚偽に真実味を加えることぐらい朝飯まえですから)

中国共産党としては・・・縄文土器の方が古いという歴史は、絶対あってはならないことですから、金銭(研究費用の拠出など)で動く、曲学阿世の欧米の研究チームを捏造に加担させることぐらい容易いことだと思っています。

中国にとって、歴史や考古学とは真実を追求するものではなく、国益のために利用する道具なのです。それが証拠に中国は、南沙諸島において、古代中国の出土品を意図的に海中に投じて偽装工作し、「この海域は古代から中国の領土だった」という恥知らずな主張をしています。


中国にとっては、「古代において、日本に文化を伝えた」というこの一点だけは、対日カード(永遠に日本人に恩を植え付け、常に上下関係を意識させ、対日関係を優位なポジションから進めるためのアイテム)として絶対に譲ることのできない事柄なんです。


記事によれば、「年代は、土器片に付着した有機物や地層中の炭、動物骨を材料に、放射性炭素の含有量を調べて決定した」とありますから、彼らなら意図的に「土器片に付着した有機物」や「地層中の炭、動物骨」をコンタミネーションすることぐらいやりかねません。

参考【コンタミネーション(汚染)・・・試料の採取を行う際、他の年代のものが混入する可能性がある。汚染除去作業内容が、測定精度を左右している。】



ふたつ目は、その測定方法(放射性炭素年代測定など)に限界があるということ。
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試料そのものが汚染されている・・・【特に炭素年代測定でいわれているのが、古い炭素を含む化石燃料を使った自動車の排気ガスを吸収した植物が、本来あり得ない時代を示す事があることである。状況判断は機械的に出来ず、関係者の恣意、バイアスが入る可能性を排除できない。】

【一万年以上前の部分は氷河期が終わって氷が溶けだし、氷に含まれた古い炭酸ガスが放出されたり、その水が空気中の炭酸ガスを吸収したりしていた筈で、その年代が特定できる事はない。 さらに、放射性炭素年代の整合性を見極める為に年輪年代とのクロスチェックが必要であるが、年輪を見る為の木材は5000年も経つと炭化してしまうから5000年以上前の木材による年輪年代もチェックは不可能である。したがって炭素年代法で一万年以上前、一万五千年とか一万六千年とか言っても信用する事が出来ない値と言う事になる。】
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また、その測定に当たっては、少なくても数種類の測定方法・熱ルミネッセンス法やフィッショントラック法などを同時に使い、かつ同一機材で日中の土器の測定を行わなければ、単純に比較は出来ないと思っています。

しかも、この調査は他の研究者による検証が一切なく、中国側の発表だけであり、その信憑性には疑いが大いに残ります




三つ目が、縄文文化が、中国最古の文化である長江文化などより数千年も古く、かつ質量とも、他文化の追随を許さないという事実。

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【中国を横断する長江】

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 岡村道雄・元文化庁主任文化財調査官は、日本列島の土器は中国のみならず「質量ともに世界の他の時代や地域のものとくらべても際立っている」と述べている。

現在、世界最古と考えられている土器の一つが、青森県大平山元(おおだいやまもと)遺跡から出土したもので、約1万6500年前。これは模様のない無文土器だが、約1万4500年前ごろには、粘土ひもをはりつけた「隆線文土器」が生まれ、全国に広がっている。

 世界の他の地域では、南アジア、西アジア、アフリカでの最古は約9千年前、ヨーロッパが約8500年前で、これらに比べると、飛び抜けて古い。
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中国が主張する世界最古の土器が出土した洞窟というのは、湖南省・玉蟾岩遺跡(ぎょくせんがんいせき)などのことでしょうが、これら長江文化の遺跡は、すべてその始まりが縄文文化より、ずっと後のことなのです。

つまり・・・縄文土器に酷似した土器や弥生式土器が、中国南部から出土している事実を考えれば、文化はどう考えても、縄文文化から長江文化へという流れなのです。

最古の土器は日中どちらかという議論はさておいても、大雑把なことを言えば、ユーラシア大陸から物理的に切り離された縄文時代の日本は、陸路より安全な海上交通網が北から南まで発達していて、日本人固有の遺伝子D2が証明するように人種的にも言語的にも文化的にも倭人として統合され、豊かな自然環境と人口密度の高い社会の中で、高度な文化が熟成され、それが後発の中国や朝鮮半島にも逆流したと考えた方が自然なのです。


余談・・・倭国が白村江(はくすきのえ)の戦い(663年・天智2年)で、 唐と新羅の連合軍と戦ったのは、単に百済の要請を受けたからという理由だけでなく、縄文時代から続く朝鮮半島南部への支配権を失いたくなかったというのが真の理由だろう。
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【白村江の戦い】


参考・・・縄文文化と長江文化の年代比較

【縄文時代】
紀元前16,000〜14,000年頃、沖縄県山下町第1洞穴、港川、ビンザアプ人。旧石器時代終末か縄文時代草創期の人類。沖縄県島尻郡具志頭村港川で人骨発見。

【長江文明の遺跡群】
玉蟾岩遺跡(ぎょくせんがんいせき)
湖南省道県。紀元前14000年? - 紀元前12000年? のものとされる。稲モミが見つかっているが、栽培したものかは確定できない。

湖南(フーナン)省道(ダオ)県白石寒(バイシーハン)村にある洞穴遺跡で、加速器質量分析法による測定から紀元前14000年〜紀元前12000年のものとされています。 加速器質量分析法(AMS:Accelerator Mass Spectrometry)とは放射性炭素(14C)年代測定法の感度・精度を追求した発展系で、重イオン用半導体検出器を用いることによって14Cをほとんどバックグラウンドなしで測定できるため年代の推定を更に正確にするものです

仙人洞・呂桶環遺跡(せんにんどう・ちょうとうかんいせき)
江西省万年県。紀元前12000年頃?。栽培した稲が見つかっており、それまで他から伝播してきたと考えられていた中国の農耕が中国独自でかつ最も古いものの一つだと確かめられた。

彭頭山文化(ほうとざんぶんか)
湖南省澧県彭頭山遺跡(澧はさんずいに豊)を代表とする。紀元前7000年? - 紀元前5000年?。散播農法が行われており、中国に於ける最古の水稲とされる。

河姆渡文化
浙江省余姚市河姆渡遺跡。紀元前5000年? - 紀元前4000年?下流域では最古の稲作。狩猟や漁労も合わせて行われ、ブタの家畜化なども行われた。


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2012年04月08日

DNAでみる古代日本人と朝鮮人

少しばかり、私と見解の相違はありますが、大変面白いビデオを紹介しておきます。

【DNAでみる古代日本人と朝鮮人】【日本語字幕】
http://www.youtube.com/watch?v=ju2oToXNbKU

私は・・・長江文明より遥かに古い縄文文化(縄文文明と言ってもいいはずだが、日本の歴史学者は、トップが左翼思想にどっぷりと漬かった馬鹿ばかりだから、下もそれに逆らえず、口が避けてもシナと同等の【文明】とはいえない)が、中国大陸に逆流していたと考えている。

つまり・・・石器時代には、東アジアの文化的な最先端地域である日本列島で、豊富な天然資源を背景に豊かな縄文文明を熟成させ、世界最古の土器文化を作り上げた縄文人が、後進的地域である長江流域に進出し、長江文明の基礎を築いたと考えているのです。

だからこそ・・・この流域の人種(漢民族と違う系統)と倭人は、共通の文化を基盤に持っているのです。(その物的証拠が、中国南部や長江流域で見つかる縄文式土器の系統土器)


余談・・・漢民族の文化(その実質は湖人と呼ばれるイラン系民族や北方遊牧民族)である黄河文明は、この長江文明の影響と西アジアからの青銅器文化の伝来を受けて、勃興してきた。

石器時代において九州は、温暖で豊かな東南アジアとの表玄関というべきであり、何もない不毛な朝鮮半島との結びつきは殆どなかったと言える。(約、7000年前までは、朝鮮半島に人は殆ど住んでいなかった)

参照・【縄文時代は、年代でいうと今から約1万6,500年前から約3,000年前(紀元前10世紀)、地質年代では更新世末期から完新世にかけて日本列島で発展した時代であり、世界史では中石器時代ないし新石器時代に相当する時代である】

参照・【長江文明とは中国長江流域で起こった古代文明の総称。黄河文明と共に中国文明の代表とされる。文明の時期として紀元前14000年ごろから紀元前1000年頃までが範囲に入る。後の楚・呉・越などの祖になっていると考えられる。】


私の見解との大きな違いは、このビデオが縄文人と弥生人をそれぞれ違う人種だとしているところだ。

しかし・・・近年の考古学における発掘調査から判明している事実からは、縄文人=弥生人=倭人=日本人とする見方が正しい。

日本人に大陸系の遺伝子があるのは、日本列島が大陸から切り離される以前に、やって来た人種が融合して縄文人となったためである。

ちなみに、過去の歴史学においては、縄文人=縄文【時代】の日本人であり、弥生人=弥生【時代】の日本人との認識だった。

それを人種の違いに歪曲したのが、東大を初めとする左翼の歴史学者たちである。


日本の歴史学会はその左翼集の団集まりであり、いまも後進の歴史学者の昇進を左右する実権をにぎっている。

この負の遺産を断ち切らないかぎり、日本の歴史学者は、事実は180度違っていると知っていながら、今後も朝鮮人・強制連行や南京大虐殺のようなデタラメで根拠のない自虐史観を教育の場で発信し続ける。

日本の歴史学者の罪は限りなく重い。


閑話・・・皇室のルーツは、古事記日本書紀の研究者によれば、南方の海から来た人々だとの解釈である。、つまり東南アジア系である。

面白いので以下のビデオも紹介しておきます。

【倭王の出自が朝鮮半島と思っている人へ】
http://www.youtube.com/watch?v=mfCDtLttPqg&feature=related
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2011年08月17日

縄文人が作った中国最古の文化

中国大陸から出土した縄文土器に関係する研究論文を探していたら、面白い発表を見つけました。

「環日本海文化圏の構想」・・・1999年度 日本海学講座(安田 喜憲・国際日本文化センター教授)
http://www.nihonkaigaku.org/library/lecture/i9906-ts.html

これを、世界地図片手に読むと、とても興味深い事柄が浮かび上がってきます。

この論文の趣旨は以下引用のとおり。

【かつてこの辺一帯(遼寧省から内モンゴルにかけて)に紅山文化という文化が繁栄したのです。その紅山文化のルーツは8000年も前にさかのぼります。7800年前にはそこで竜が生まれています。竜です。それが5000年前の気候変動、5000年前に気候が寒冷化しました。寒冷化したことによって、一部は日本に来たのです。

そして日本の縄文時代中期の文化の発展を刺激した。それで一部は、南の方に逃げていったのです。そしてそこで長江文明の発展を刺激したのです。この紅山文化の影響を受けて、長江文明が繁栄したのです】


龍.jpg
(玉竜。紅山文化の出土品)


この論文の中で安田教授は、紅山文化の担い手である民族がどこから来たのかには触れていません。しかし私は、これら中国大陸で最も古い文化(紅山文化、河姆渡文化、興隆窪文化)が、縄文人の移住地であり、縄文文化を継承しているとの見解を持っています。

そこでまず、これら遺蹟の位置関係を理解するために、世界地図とコンパスをご用意ください。そして以下の諸文化を大雑把に理解し、これらの遺蹟を地図上にマップします。

査海遺跡・・・【興隆窪文化】は中華人民共和国内モンゴル自治区から遼寧省にかけて紀元前6200年頃-紀元前5400年頃に存在した新石器時代。紅山文化に先行する遼河流域の文明(遼河文明)のひとつとされる。
 興隆窪文化は、ヒスイなどの玉製品(ケツ状耳飾)の出土する文化としては中国最古のものであり、なおかつ龍の出現する文化としても中国最古のものである。また興隆窪文化の遺跡からは平底円筒状の、比較的低い温度で焼いた土器(陶器)が出土する。類似する平底円筒型土器が朝鮮半島北部からアムール川流域、ロシア沿海地方にかけての広範囲で紀元前6千年紀頃から紀元前2千年紀ごろまでの間に発見されているほか、同様の土器が縄文時代の日本の東北地方・北海道からも発見されている。

(興隆窪文化の場所)
http://www.tscc.tohoku-gakuin.ac.jp/~orc/sympo/20040201-r-2.htm

紅山後遺跡・・・【紅山文化】は中華人民共和国河北省北部から内モンゴル自治区東南部、遼寧省西部に紀元前4700年頃-紀元前2900年頃[1])に存在した新石器時代の文化。紅山文化の名は、内モンゴル自治区の赤峰市で発見された紅山後遺跡に由来する。

(赤峰市の場所)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E5%B3%B0%E5%B8%82

河姆渡遺跡・・・【河姆渡文化】は中華人民共和国浙江省に紀元前5000年頃-紀元前4500年頃にかけて存在した新石器時代の文化。杭州湾南岸から舟山群島にかけての地域(現在の浙江省東部、寧波市から舟山市)に広がっていた。余姚市の河姆渡村の河姆渡遺跡から発見されたことから、河姆渡文化とよばれる。河姆渡遺跡は1973年に発見され、1973年から74年と1977年から78年の2回にわたり発掘作業が行われた。水稲のモミが大量に発見されたため、人工的かつ大規模に稲の栽培が行われていたことが明らかになった。これは世界でも最古の稲栽培の例である。

(浙江省寧波の位置)
http://searchina.ne.jp/map/index.cgi?fromcity=0571&tocity=0574

次に・・・縄文人の黒曜石の流通ルートから、縄文人の最長移動距離をコンパスではかります。(といってもその交流ルートは、海を越えて北はサハリンから南は沖縄までとかなり長いので、ここでは分かりやすく日本列島の長さをその半径とします)

それから・・・九州最南端・大隈半島あたりを中心にして地図に円を描いてみてください。

そうなんですね。これら中国最古の文化圏や遺蹟はすべて、縄文人の活動範囲に含まれているということなんです。

さらに驚くことには、沖縄を含み南に長く伸びた南西諸島の先にある台湾だけでなく、かってのスンダランドの北端であるルソン島まで、この円内にあると言う事実。


参照・・・【スンダランド (Sundaland) とは、現在タイの中央を流れるチャオプラヤー川が氷河期に形成した広大な沖積平野である。現在ではタイランド湾から南シナ海へかけての海底に没しており、マレー半島東岸からインドシナ半島に接する大陸棚がそれに当たる。氷河期に、海面が100メートル程度低くなり広大な平野であった】

sekaitizu.png

しかし・・・「日本列島は陸続きじゃないか、海と単純に比較は出来ないよ」と思われる方もいるでしょう。

そこで・・・今度は、腰岳(佐賀県)産の黒曜石が出土している南西諸島に目を向けます。九州・五島列島を中心に西表島までを半径にして円を描いて見てください。

どうでした?・・・中国最古のこれら遺蹟は、ほぼ円周内に含まれますよね。

(紅山文化が位置する内モンゴル自治区東南部といえば、ずいぶん内陸部のように感じますが実際には、渤海に面した興隆窪文化のすぐそばであり、これらの文化は一つとみて差し支えありません)


これ・・・ちょっと驚きませんか?(私はこの事実に気づいたとき、アッと思いました)

スンダランドの海洋民族と関係のある縄文人にとって、黄海や渤海、さらに東シナ海や日本海などは庭のようなものなんです。韓国の仁川辺りを中継地にすれば、紅山文化の地・遼寧省にある遼東半島などは目と鼻の先です。

漢民族とは違う系統のこれら文化は、内陸部ではなく海にごく近い場所に位置しています。


そしてこれらの全て文化に共通するのは・・・遺蹟の出土品(漆や耳飾や土器など)から分かるように、それらよりはるかに古い歴史をもつ縄文文化と深い関わりがあるということです。

【今では、日本由来の文化だとされる漆の年代は、垣ノ島B遺蹟(北海道南茅部町)出土の漆製品(腕輪など)では、中国最古の漆製品(河姆渡遺跡)よりさらに古く、6500年前、一説には9000年前とも言われている。】



この安田教授の見解によれば、この査海遺跡から出土した土器は、非常に中期の縄文土器と似ているということ。

【そこから出た土器がこれです。これは7000年ほど前の土器です。7800年前といわれていますが、この土器は、ぱっと見たら、私も土器はあまり詳しくないですが、縄文時代の土器と同じです。

これは青森県の三内丸山遺跡の円筒土器、それと形が非常によく似ています。あの縄文時代中期の三内丸山遺跡は、円筒土器という土器を使うのです。その円筒形の土器と形もよく似ています。

そして材質もそっくりなのです。私たち知らない人間が見たら、これは縄文土器と言いたくなるようなものが、この遼寧省から内モンゴル自治区にかけて、紅山文化の時代に作られています】

また「雲南省の土器ですが、日本の弥生の土器とほとんど同じです。土器もそっくりなのです」と書かれているように、中国大陸では日本の土器、またはその影響を強く受けた土器が、かなり出土していると見て間違いありません。



さて本題・・・約7000年前に紅山文化を築き、縄文土器とよく似た土器で暮らしていた民族は、一体どこから来たのでしょう?

日本の最古の縄文式土器は1万6500年前で、ここで出土した土器の年代はおよそ7000年。その時差には約9500年の開きがあります。

また石器時代の日本と中国では、出土品や遺蹟の数から見ても、明らかに日本列島の方が断然多くまた文化的な差があります。

突如として倭人と同じ土器を作る異民族が、中国に出現するなどありえない話です。これはどう考えても中国文明より古い文化や歴史を持つ縄文人が、紅山文化の地に移住してその基礎を築いたということに他なりません。

もし、その民族が大陸内部からやってきたとしたら、そのルーツとなる縄文土器とは違った、個性のある土器など確たる痕跡が当然、内陸部にあってしかるべきです。しかし、そのような遺蹟は見つかっていません。

であるならば、約7千年前に突如として中国沿岸に現れたこの民族は、海から来たとしか考えられません。


安田教授は、この民族が中期縄文時代に大挙して日本に移住してきたと仮説を述べていますが、日本列島でシナ大陸から持ち込まれたと考えられる特徴を持った土器は発掘されていません。(縄文土器の系統は詳細に分析がされています)

朝鮮半島に渡った縄文土器が、一世代二世代のうちに変容している事実からしても、査海遺跡で出土した中期縄文土器とそっくりな土器から判明する事実は、この遺蹟に絶えず縄文人が移住し、かつ交流していたということの証左なのです。そして生活出土品に民族の差が見られないとすれば、どう考えてもこれは縄文人の移住地としか考えられないのです。

せいぜい、川を渡るイカダぐらいしか作れない内陸部の人々が、大した航海技術もなく、また外洋を航海できる船も持たず日本列島に来れるはずがありません。

(ちなみに・・・私は、後出しジャンケンのような捏造や改ざんも平然と行う、中国の年代測定など初めから信用していません。従って、査海遺跡のケツ状耳飾や玉の年代が7800年前という測定結果やほとんど出土例のない1万8000年前だと言われている中国最古の土器などは捏造だとさえ思っています。おそらくは皇紀を真似て作られた中国4千年という偽史のように、日本のそれら出土品の年代測定をもとに、かさ上げした測定値でしょう。なにせ事故を起こした高速列車でさえ、すぐに埋めて証拠を隠蔽しようとする国ですから・・・)


中国最古といえるこれら文化より、はるかに長い歴史をもつ縄文文化が、紅山文化や河姆渡文化の形成に強い影響を与えないはずはありません。(この漢民族とは異なる系統の民族には、間違いなく倭人の血が流れていることでしょう)


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(河姆渡文化)

これらの縄文人と深い関わりのある文化は、確実に中国沿岸から、川を遡り内陸部へと浸透していったはずです。それは後に栄える黄河文明(漢民族の文化)にも当然影響をあたえたことでしょう。そして安田教授の論文(龍の文化)にも関係すると思われる、古代中国の文献に記された中国大陸の倭や越人の文身との関係も実に興味深いものを感じます。


追記・・・倭人は、このように朝鮮半島にほとんど人が住んでいない時期から、中国大陸と直接交流していたのです。この事実をもってしても、古朝鮮が日本に文化を伝えたというのが、誤りであることが分かります。だからこそ、朝鮮半島南部は倭人の勢力が大きく、百済も新羅も倭国を大国だとあがめ朝貢していたのです。

参考・・・旧石器時代の遺蹟数、日本列島5000箇所に対して朝鮮半島はたったの50箇所。(朝鮮半島では新石器時代と呼べるものがないほど短い。従って朝鮮の石器時代とはそのほとんどが旧石器時代である)

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2011年07月25日

縄文時代の日本と朝鮮の比較

縄文時代の年代をウィキペディアから引用すると。約1万6,500年前(紀元前145世紀)から約3,000年前(紀元前10世紀)と言うことになる。

日本列島は、今からおおよそ1万年前に最後の氷河期が終わり、その後の温暖化による縄文海進も終わりをつげ肥沃な三角州や沖積平野が出来上がった。また日本列島のブナの森(縄文の森)が、世界で最も早く形成された。

大雑把にいえば、縄文時代とはこのような時代である。


さて本題に入ると・・・縄文人は定住生活を送っていた。縄文人の定住は縄文研究者にとっては、40年もまえからの常識だったが、三内丸山遺蹟の発掘でそれが確たるものとなった。

つまり・・・朝鮮半島にほとんど人が住んでいない時期に、日本ではすでに定住生活をしていた。(それは左翼的自虐史観が語る狩猟採集経済で非定住という、原始的な姿とはまったく異なっている)


当時の朝鮮半島のような非定住社会と縄文人の定住社会の違いはなにかと言えば、それは以下のような差である。

考古学者渡辺仁氏によれば「非定住な暮らしをしているとどうなるか。人が死んでもあちらこちらに埋めて次に移動してしまう。建物に、大きな建材を使わない。仮設的なものか、あるいは運んでいけるような軽量建材を使う。モンゴルのパオとかゲルのようなもの。あるいは、移動するたびに木を入手して作る。ゴミはあっちこっちに捨てていってしまう。

反対に定住するとどうなるか。立派な建物を建てることが可能になる。石皿とか石棒とか土器を使うようになる。ゴミ場(貝塚のような)が必要になり、墓が必要になる」


縄文時代の日本は木造建築の技術も相当進んでおり、長浜浩明氏の著書によれば「木造建築の先進性の証拠として、1万2千年前から弥生時代まで続いた富士山の桜町遺跡から、精巧な木組みを用いた4千年前の高床式建物が出土した。この事実から、高床式建物は稲作と共に渡来人がもたらした、なる説も誤りであることが確定した。そして約35センチを単位とする尺度があったとも考えられ、奈良の法隆寺や東大寺の技術基礎はこの時代から育まれていたのである」という。

【桜町遺跡】
http://inoues.net/ruins/sakuramachi.html

つまり・・・その文化的差は明確である。


縄文人の定住は、鹿児島県の「掃除山遺蹟」や「かこいノ原遺蹟」のように、縄文草創期(一万年以上前)にまでさかのぼる。そして上野原遺蹟の早期にはすっかり安定した村の営みが軌道に乗っていたのがわかる。

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【掃除山遺蹟】

それに伴って・・・日常の生活品が発達し、縄文前期の青森・野辺地の向田遺蹟では、、なんと薄さが5ミリの木製品の鉢が出土している。高知県の居徳遺蹟では、日本独自の発明品・漆まで塗っているものが数多く出土している。

東京都の下宅部遺蹟から出てきたスプーンには、透かし彫りがあって、しかも赤い漆がぬってある。

(稲畑遺蹟では、クワやカマなどの農具とともにスプーンやフォークなどなど多くの食器類が出土)

木製品などの有機質の遺物は酸性土壌の中では、腐食するが、日本ではそれが次から次へと出てくる。つまり、それだけ生産量が多いということでもある。

その一方、朝鮮半島はというと・・・「厳しい氷河期の数十万年の間、朝鮮半島の旧石器時代人は、洞窟生活が殆どで、狩猟・漁労の採集が生業でした。やがて温暖な沖積世になると、海岸線が上昇して、今日とほぼ変わらない朝鮮半島を形作ります。しかし未だ、打製石器の使用ですから、新石器時代といえるのか疑問です」とある。
 
考古学者によれば、その時期の朝鮮半島にはほとんどまともな発掘資料がない。それを裏返せば、人があまり住んでいなかったという事。だから、その頃の人々がどのような暮らしをしていたかもよく分からない。

参考・・・旧石器時代の遺蹟数、日本列島5000箇所に対して朝鮮半島はたったの50箇所。(朝鮮半島では新石器時代と呼べるものがないほど短い。従って朝鮮の石器時代とはそのほとんどが旧石器時代である)

蛇足ではあるが、その頃の比較的発達していた南中国でも、小林達雄氏によれば、「南中国で今発見されている、一万年クラスと言っていますけど、その石器とか骨角器の貧弱なこと。とてもじゃないけど、日本の草創期に太刀打ちできません」「日本は、旧石器時代の終わりから縄文草創期にかけての遺蹟の密度はすごい。遺蹟の密度が人口に正比例するとは限らないとはいえ、大まかにはほぼ比例する。日本列島は人口密度が高かった」とのこと。

中国でさえこの程度、ましてや朝鮮半島と日本では比較にもならない



また、日本の縄文時代では栗やメロンなどの栽培がされ、灰汁ヌキとかフグの毒ヌキや犬の飼育などが発達している。身に着けるアクセサリーの種類も豊富だった。

(稲による農耕が縄文時代から、始まったことは今日広く知られている)

人種的にいえば・・・日本列島が大陸から切り離されてから、大陸からはほとんど新たな人の移住はなかった。(この根拠は以前に書いたが、過去の歴史学者の渡来者や縄文人の人口推計のデタラメさについては、「日本人ルーツの謎をとく」で明確に指摘されている)

縄文中期までに、縄文を代表する栗の栽培が海を越えて北海道石狩低地帯にまで及び、晩期にはオホーツク沿海岸にまで達している事実などから検証できるように、その頃には倭人としての文化的・人種的統合が成立していた事が判明している


(倭人固有のアクセサリー・けつ状耳飾などは、その傍証の一つ)

ケツ状耳飾.jpg

また言語から言えば、「沖縄、津軽海峡を含めて一つの文化圏を成している。言語が通じるから行ったり来たりしているんです。ところが、宗谷海峡を通って樺太にも行っているんですが、一度も手を結ばない。また、朝鮮海峡については、対馬は日本より半島よりなのにもかかわらず、対馬は日本側です。その文化圏の根底にあるのは、言葉の問題です」と述べられているように、この頃にはすでに単一民族としての倭人がすでに存在していた。


かたや朝鮮半島といえば・・・大陸からの人種の移動が絶えず、固有の民族は生まれていない。またその言語も固有のものはまだなく、地域地域で倭人やシナ人、北方民族や土着民族の言語が話されていた。

(ちなみに私は・・・縄文時代から朝鮮南部にまで影響力のあった倭人の言語(日本語)が、朝鮮語の文法に強い影響を与えたと考えている。
なぜなら、一万年以上も前に氷河期が終わり、閉ざされた日本列島で、南方の海や北のサハリンなどから入ってきた人種が混ざり合い、倭人としてのアイデンティテーが確立しつつあつた時期、つまり日本語の揺籃期に朝鮮半島からの影響力はほとんどなかったからである。
約1万2千年前から7000年前もの間、朝鮮半島はほぼ無人だったことが、考古学調査から判明している。それ以後も人口はそれほど増えていない。
たった200語しか残っていない古朝鮮語をもってして、数万は残っているだろう大和言葉が、朝鮮語由来だというウソ(言語データとして不十分で成り立たない学説)を唱える朝鮮人学者や最近ではコンピュータを使って調べたという、とんでもなくお馬鹿な東大のご用学者まで現れる始末だが、実際は朝鮮語が日本語の起源なのではなく、実態はその真逆なのだ)


日本の教科書の歴史教育では・・・ある時期から突然朝鮮文化(百済や新羅)が出現したかのような錯覚に襲われる。それも無理からぬことで、実際朝鮮半島の文化は、他民族の力を借りて突然出現したと言っても過言ではないからだ。朝鮮ではその建国から他民族に依存していた。

その頃の朝鮮半島は、中国の文献にあるように「倭人・シナ人・百済や新羅のルーツであるツングース系扶余族など北方民族、そして土人」とが混在していた人種的にはこの土人と呼ばれる人々が朝鮮人のルーツである。

百済や新羅では、倭人やシナ人など他民族がいわば支配層であり、土民はその下に位置する。これらの国々の建国はそのほとんどが他民族によるものである。

今では広く知れ渡っているように、新羅の建国にはその建国当時から倭人が関与しており、またその国王は数代にわたり倭人であった。百済や新羅は、そのルーツがツングース系扶余族であり、これを朝鮮人のルーツとするのは無理がある。例えて言えば・・・モンゴル帝国に支配された朝鮮の高麗が、自分たちのルーツはモンゴル人だと言っているような実に馬鹿げた話だ。

このように国家の成立さえ他民族に依存してきた朝鮮と、大陸とはまったく違う独自の文化圏を形成してきた古代日本と、どちらが先進性が高いかは比較するまでもない。かって朝鮮は日本より文化が高かったと、平気でウソをつく朝鮮民族のデマを決して信じてはならない


参考文献

「縄文人の生態ー住居の安定性とその生態学的意義」
「世界史の中の縄文」
「考古学から見た日本人」
「海を渡った縄文人」
「発掘された日本列島」
「日本人ルーツの謎をとく」
 その他
一部、インターネット


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2011年05月30日

民主党の売国行為

日韓友好の美名に隠れて朝鮮王室儀軌を返還し、日韓基本条約を反故にしようと策動する在日政党・民主党の日本人への背信ぶりには、正直怒りが収まりませんね。

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【朝鮮王室儀軌(ちょうせんおうしつぎき)は、李氏朝鮮時代の国家主要行事を文章や絵画で記録した文書類の総称である。韓国政府は自国の管理不行き届きで原本を紛失したうえ、あろうことか日本が合法的に所蔵しているその写本を、日韓併合時に強奪されたと言いがかりをつけ返還を求めている】

(民主党の党員&サポーター資格に国籍条項がありません。事実上、菅直人首相は日本憲政史上、初めて在日朝鮮人など外国人が党首選で選んだ総理大臣だといっても過言ではないでしょう。これは明確な、国民主権の侵害です)

朝鮮王室儀軌問題 23/5/26 参院外防委・下條正男参考人意見【NHKは朝鮮人の為に金を使用】
http://www.nicovideo.jp/watch/sm14563763




日本人は、政治というと何か不正で不道徳なイメージを抱いてきました。(事実、今でもそうした政治屋が横行し、国民もまた地方への利益誘導の道具として、彼らを利用してきた経緯がありますが・・・)

だから私も含め、多くの国民は、政治とはそうしたものだという諦めと、不浄なものには関わりたくないとの思いがその根底にあります。


しかし・・・朝鮮人はまったく違う価値観をもっており、少しでも自分たちの利権を追及しようと、ほぼ全ての在日朝鮮人は政治に積極的に関わり、あるいは帰化して政治家となり、日本人にさえ与えられていない多くの不当な利権を獲得し、かれら朝鮮人のための日本を作ろうとしています。


いまこそ、志のある若者は政治家(政治屋ではない)をめざすべきではないかと考えます。

このまま、ますます帰化朝鮮・中国人の売国政治屋が増え、日本人の保守政治家が少数に転落した現状を放置すれは、数十年のうちに日本はスウェーデンのような深刻な民族対立が生まれます。まさに家庭の危機(日本人の危機)だといえます。


【スウェ-デンのマスコミが隠すスウェ-デンの真実】
(スウェーデンにみる外国人参政権、人権擁護法案、移民1000万人受け入れの未来)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm13482768


終戦時に朝鮮進駐軍と称し、全国各地でレイプや殺人・集団暴行・土地の略奪を働いた在日朝鮮人や血塗られた共産主義の残滓である左翼から、政治を公共の精神を重んじる日本人の手に取り戻すのは、今をおいて他にありません。だれしも子供達を民族対立の犠牲者にさせたくはないはずです。

(そのためには、過去の捏造された自虐史観から抜け出した我々大人が、正しい歴史観を青少年に伝えていく努力が必要なのです)



余談ではありますが・・・橋下大阪府知事が提起した教員の国旗起立問題について。

国旗とは国民の象徴であり、その国民とは決して個人ではありません。
突詰めれば・・・国旗を尊重すると言うことは、公共の精神を尊重するということです。

その国旗を否定することは、とどのつまり公共の精神を否定し、個人の思想を優先させると言うエゴに他なりません。


国旗を否定する教員や左翼とは・・・たんなるエゴの集団でしかありません)

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【日の丸の由来・・・飛鳥時代末期に国号を「日本」(日ノ本)と命名したところからも、太陽(日の出)を意識しており、「日が昇る」という現象を重視していたことが窺える。
この太陽を象った旗を用いるようになったのは、645年(大化元年)の大化の改新以後、天皇による親政が確立された頃からと考えられる。文献としては、797年(延暦16年)の『続日本紀』の中にある文武天皇の701年(大宝元年)の朝賀の儀に関する記述において、正月元旦に儀式会場の飾りつけに「日像」の旗を掲げたとあり、これが日の丸の原型で最も古いものといわれている】
posted by かたばみ at 10:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 偉大なる先人達 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月12日

天皇(大和朝廷)= 渡来人説の大嘘

今もなお・・・過去に教わった歴史教育のまま、紀元前から6〜7世紀の頃にかけて、後に皇室となる先進文化を持つた多くの渡来人が、朝鮮半島から日本列島に移り住んだと思い込んでいる人々は多いのではないだろうか?

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【吉野ヶ里遺跡】

これは過去の歴史学者が、以下に述べるように物的証拠のない、推論と固定観念による誤解をして来たからである。

第1の間違いは・・・古代の朝鮮が日本より先進的であり、また朝鮮半島や大陸から多くの渡来人がやって来たという誤解。

第2の間違いは・・・文化(知識や発明)の伝播には、必ず人種の移動や先住民への征服が伴うという固定観念。

第3の間違いは・・・天孫降臨という古代の人々のイマジネーションを、単純に地理的関係へとこじつけた点。


以下、直近の考古学調査や参考文献などを引用してそれらの誤りを正していきたいと思う。


【第1の間違い】・・・古代の朝鮮が日本より先進的であり、また朝鮮半島や大陸から多くの渡来人がやって来たという誤解。

縄文時代から弥生時代にかけて、大陸から渡って来たとされる支那人の生活文化や土器を伴う集落は発見されていない。つまり支那人がこの時代に日本列島に移住していた痕跡はなく、従って彼らには大和朝廷を築くほどの人口もなかったし、それを担うほどの支那文化も伝えられてはいない。

それでは古代朝鮮人は皇室となりえたか?・・・答えはやはり否である。その理由は、縄文時代や弥生時代の日本列島に朝鮮系集落はなかったし、倭人文化の方がはるかに優位に立っていたからだ。

「弥生時代前期後半から北部九州において朝鮮系無紋土器(朝鮮半島で作られたと思われる土器)が、玄界灘沿岸に点在する遺蹟から出土する。ただし、その数は一遺蹟当たり多くて数個程度であり、これらは小規模な交易、土産物、偶然の漂着によってもたらされたに過ぎない

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【朝鮮系無紋土器】

この地域には朝鮮系無紋土器を伴う、朝鮮系と見られる諸岡タイプの遺蹟もわずかに存在するが「この朝鮮系とおぼしき集団の居住区は、弥生(倭人)集落エリアの住み心地の悪いほんの一角を占めたに過ぎず、しかも程なく消滅した

また擬朝鮮系無紋土器(弥生土器の影響を受けて朝鮮系無紋土器から変容した土器)が出土する集落がある。しかし、「その数も10箇所程度であり、確実な出土例は現在のところ北部九州にとどまり、北部九州の弥生遺跡からすれば極わずかだった。それは渡来人集落ではなく、弥生集落の中に渡来人が居たと思われる程度だった

朝鮮系渡来人の遺蹟が残されている北部九州でさえこの程度の規模なのだ。事実に基づいて客観的に考えれば、古墳時代も含めこの人口と呼べるほどの人数もいない朝鮮系渡来人やその文化が、稲作を始めとする農耕などの文化的先進地・倭国に大和朝廷を築き上げるほどの影響力があるはずがない

文化の先進性で言えば・・・朝鮮式土器は、半島に移住した縄文人の縄文土器が変容したものだし、生活品・農具・鉄器や武具などの出土品や古墳・集落・建造物・生活文化の規模などは朝鮮半島と比べ物にならないほど倭国のスケールは大きい。中には仁徳天皇陵など世界一の規模を持つものまである。これなどは当時の日本の国力や土木技術の水準がいかに優れていたかを物語る。

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【墓域面積が世界最大の大仙陵古墳(仁徳天皇陵)】

例えば稲作では「遼東半島や朝鮮北部での水耕田跡が近代まで見つかっていないこと、朝鮮半島での確認された炭化米は紀元前2000年が最古で畑作米の確認しか取れないこと(水田跡については日本が2500年前であるのに対して、半島は1500年前)、極東アジアのジャポニカ種稲のDNA分析において、一部遺伝子が朝鮮半島を含む中国東北部稲からは確認されないなどの点から、いまでは朝鮮半島伝来説の支持者は少ない。近年では教科書などからも説が除外された」

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【弥生時代の武器】

だからこそ随書など中国の文献に「新羅も百済も倭国を大国と見ている。優れた品々が多いためで、新羅も百済も倭国を敬仰し、常に使節が往来している」とあるのだ。

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【『隋書』(ずいしょ)は、二十四史伝の一つで第13番目にあたる】

朝鮮半島が勝る点があるとすれば、そこから産出された良質の鉄だけである。(この鉄を求めて倭人や漢人が半島に進出していた。今で言う、レアメタルを求めて後進国に赴くようなものだ)


「縄文時代から弥生時代への移行期へのムラでは、水田遺構と共に発掘された土器を始め生活文化の殆どが縄文であり、やがて弥生土器が混在し文化的にも断絶なく弥生の要素が次第に増えていった」


言うまでもなく弥生土器は倭人が作った土器である。そして「朝鮮半島には、日本の弥生式土器、それに伴う石器と類似の物が、かなり濃厚に分布している」


これらの事実は、氷河期が終わり大陸から独立した文化圏を持つ縄文人が、時代をへて緩やかに弥生人へと骨格的にも文化的にも変遷をして行ったという過程を示したものであり、そこには渡来人の移住や影響力はなく、むしろその倭人が海を渡り朝鮮半島にまで居住の地を広げていたという事に他ならない。

その傍証としては・・・古代の中国文献や広開土王陵碑の碑文、日本書紀の欽明紀にある任那日本府などから読み取れる倭人の朝鮮半島支配とその影響力など多々ある。新羅の王が代々その権威である冠に、糸魚川の翡翠(縄文人の装飾品である翡翠文化)を付けていたのは有名な話だが、その理由は実に単純な話で、新羅はその建国から倭人が深く関わっており、四代目の王・脱解やそれ以後数代にわたり新羅の王が倭人だったからであり、彼らはその権威付けに朝鮮半島より文化の進んでいた倭国の権威が欲しかったし、倭人だったという誇りと経歴を伝えたかったからだろう。

*『広開土王碑』・・・「倭が新羅や百済を臣民とした」
*『三国史記 第一巻 新羅本記』・・・「第4代国王の脱解王は、倭の多婆那国から日本海を流れてきた賢者であり、総理大臣も倭人を据えた 」
*朝鮮半島で発見されている日本列島独特の墓制である前方後円墳の存在

つまり、日本列島への朝鮮系渡来人の影響はまったくと言っていいほどなく、むしろ縄文時代から続く倭人の朝鮮半島への文化的・武力的支配の影響が大きかったのである。縄文時代からの勾玉・翡翠文化を継承している大和朝廷が、朝鮮系渡来人である可能性はゼロに近い。皇室のルーツは間違いなく縄文人にある。

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【勾玉】


【第2の間違い】・・・文化(知識や発明)の伝播に人種の移動や異民族への征服が伴うという固定観念。

文化は、必ずしも人種の移動や異民族の征服を受けてもたらされる分けではない。実例を挙げれば、紀元前2000年頃に栽培が始まった北アフリカや中近東地方原産のメロンが日本列島にも伝わり、縄文時代後期の菜畑遺蹟で栽培されていたが、もちろん西アジアに住む異民族が日本にやって来た分けではない。

これは西アジアに起源を持つ農耕や製鉄の技術に限らない。数学や天文学や宗教なども同様だ。文化(知識や発明)はあたかも波のように伝播し、その速度は民族間の摩擦を生じる人種の移動よりも早く伝わる。

これはあたかも一端を握ったロープを上下に降ったとき、それが伝える波と似ている。ロープの一点(定住している民族)は単に上下し決して移動しないが、波(文化や知識)はもう一方の端にまで達する現象にも似ている。

文化とは交易などを通して、見て模倣しそれを取り入れていく事で民族から民族へと波のように伝わって行くものでもある。海洋民族・倭は朝鮮半島を中継点の一つにして中国大陸とも交易を行っていた。そこから得られる中国文化の運び手はあくまでも倭人である従って、中国文化の倭国への伝播は、支那人や朝鮮人の移動や移住を必ずしも必要としない。


【第3の間違い】・・・天孫降臨という古代の人々のイマジネーションを、単純に地理的関係へこじつけて歪曲した点。

「高天原とは空の上ではなく、天皇は倭国の以外の遠いところ。恐らく、朝鮮半島か大陸の何処から来たのに違いない」と考える歴史学者は案外多い。しかし、これはあまりにも視野の狭い見方だと言わざるをえない。

天孫降臨は日本だけのオリジナルではない。世界中いたるところにある。(これら天孫降臨に類した神話はアジアにも広く分布している。その一つモンゴルの神話では至高神サガンの孫ゲゼル・ボグドゥが、六種類の神器を授かって地上に天下り、国を建てたとある)

天孫降臨を単純に地理的関係に求めるのは、古代の人々の見上げれば雄大に広がる未知の世界(天空)に対するイマジネーションを、まったく無視したこじ付けとも言える。

日本の古事記のみならず、メソポタミアなどの西アジアやギリシャ・エジプトの神話やインドの「リグ・ヴェーダ」では、まず混沌の状態の宇宙があり、そこから神が天と地を作り国が誕生し、その後人間などの生命を誕生させたとしている。

方角や距離、文化の高低からは混沌を決してイメージできない。

天空から混沌をイメージするものは雲だ。雲は常に形を変えてカオスの状態であり、豪雨や暴風を生じ、稲妻を発生させ太陽を覆い隠す。また雷や暴風や大雨や日食は人知を超えた天の力(神)を感じさせるものである。

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天気と農耕は密接不可分である。その農耕の発祥の地はメソポタミアである。恐らく天孫降臨神話はその起源が西アジアにあり、それが灌漑などの農耕技術や土地の面積を求める数学の普及とあいまって、他民族の神話と融合し世界各地に広がって行ったと見るのが妥当だろう。

(人の脳は、在る部位に電極などの刺激を受けると体から心が遊離する感覚が生じ、同様に神のような大きな存在をも身近に感じることが実験的に実証されている。つまりこれらの感覚は潜在的に人間に備わっているのだ。これら脳に生じる超体験的感覚と天空のイメージが合わされば、天孫降臨伝説は容易に想像できる)

この古代人のイマジネーションには、驚くことにもう現代の生命の起源論(宇宙物理学や物質の進化[自己組織化]から生命の起源をさぐる研究)が萌芽している。

地理的な関係を強いて言うのであれば、古事記や日本書紀では皇室は南方の海から来た人々だとしている。

つまり海洋民族である倭人にとって、古代(縄文時代)の九州は、何もなく不毛な朝鮮半島より、スンダランド(東南アジア)との交流が深く、その表玄関だったという方が正しい


ここまで書けばもうお分かりだろうが。これら世界各地の伝説は朝鮮半島と地理的にもまったく無関係だ。日本の神話だけを地理的関係(朝鮮半島)と結び付けようとする学者は、根拠もなく自虐史観から単にそうあって欲しいと望んでいるだけである。(赤い眼鏡をかけた学者には、何を見ても赤い色が加色されている)

ちなみに・・・ 古事記に出てくるヤマトタケルの東征などは、単に、朝鮮半島より農耕の先進地であった北部九州の弥生人(縄文人)の一派が勢力を増し、東に住む同じ倭人を傘下に収めていっただけの話。縄文時代から倭人の影響下にあった朝鮮半島とはまったく無関係。


参考文献

「弥生時代渡来人と土器・青銅器」片山宏二・著 

「日本人のルーツの謎を解く」展転社・長浜浩明著

その他
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2011年01月09日

中国文化の源泉は西アジア

今でも、日本など東アジア諸文明の原点が、中国文明にあると考えている人々は多いだろう。

この誤りは、文明の起源が世界四大文明(メソポタミア文明・エジプト文明・インダス文明・黄河文明)にあると言う仮説から刷り込まされた、一昔前に流布し考古学の知識が少なかった時代の古い概念に由来する。

【ウィキペディア・・・世界四大文明とは人類の文明史の歴史観のひとつ。 歴史上、4つの大文明が最初に起こり、以降の文明はこの流れをくむとする仮説。四大河文明とも言う】

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(メソポタミア地域)

これも一昔前、人類は諸大陸で同時発生的に誕生したとする説が主流だった。この人類同時発生説と密接にリンクしたのが、四大文明説だった。しかし、今ではDNAの解析などにより、人類の起源はアフリカにあることが判明している。これは文明の発達にも同じことが言える。

文明は人類の到達した足跡に沿って、つまりアフリカに近い地域から発達し、遠くへと伝播して行った。

分かりやすく上記の世界四大文明を例にとって大雑把に述べれば、まず紀元前9000年頃、アフリカに近いメソポタミア地域にシュメール人が移住し世界最初の農耕が始まると、メソポタミア文明が起こり灌漑技術生み出す。その後数千年を経てエジプト文明が誕生し、それら文明の影響を受けたインダス文明から黄河文明へと文化が伝播し継承されて行くという道筋をたどる。

日本人は良く、農業技術(灌漑技術)や数学など諸々の文化が、中国を発祥の地だと勘違いをするが、実はそれら人類の転換期となった技術ほとんどが西アジア発祥なのだ。

少々脱線するが、文化の伝播の担い手である古代の交通交易網や情報網は、現代人が想像する以上に発達していた。それは、北アフリカや中近東地方の原産であり、その地で紀元前2000年頃に栽培が始まったメロンが、縄文時代後期の菜畑遺蹟で栽培されていたことからも分かる。

西アジアやアフリカからもたらされた文化の具体的な例をあげれば、先に述べたように農業はメソポタミアから、牧畜は約8千年前から北アフリカやメソポタミアなどで始まり乳製品が作られている。

金属の利用は、紀元前約7千年頃、西アジアと東南ヨーロッパで自然銅を溶融し鋳型に入れて生成する冶金方法が発明される。その後、銅に錫や砒素を混ぜて実用に耐える強度を持つ青銅がメソポタミアを中心にした西アジアで発明された。

鉄を精製する技術は、紀元前3000年頃の西アジア(北シリアのチャガール・バザール遺跡やバグダットのアスマール遺跡)から最古の鉄剣が出土している。青銅器同様にその精錬技術は中国を経て日本にまで達している。

【日本最古の鉄器についての余談・・・「弥生時代は、紀元前五世紀ごろに始まるとするのが通説。しかし、国立歴史民俗博物館の研究グループが発表した新説では、弥生時代のスタートとなる稲作伝来が、定説より約五百年早い紀元前十世紀ごろとする。九州北部で出土した土器などを放射性炭素(C14)年代測定の最新技術で分析した結果がその根拠となった。」(中略) 「しかし同県の曲り田遺跡から出土した鍛造の鉄斧(てつぷ)は、新説への疑問を投げかける。一緒に出土した土器からみて、紀元前五世紀ごろの日本最古の鉄器とされてきたが、新説に従えば紀元前十世紀近くとなる。中国では西周の時代に当たる。」(中略)「当時は中国でも鉄器の加工技術が十分に確立されていなかった」と弥生文化博物館の三木弘学芸員。「五百年さかのぼれば、日本が鉄器技術の最先端地だったことになってしまう」以下略・・・ 神戸新聞・2003/06/04)

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(石崎曲り田遺跡から出土した板状鉄斧)

しかし、縄文時代初期から中期にかけて、中国を凌ぐほどの文化を生み、世界最古の土器を高温で生成する技術を有していた縄文人(倭人=弥生人)からすれば、鉄の精製はそれほど困難な技術とも思えない。西アジアからの距離を考えれば、距離的に近い中国と日本に、ほぼ同時期(百年前後の差)に鉄器の技術が伝わり、日本で鉄斧が作られたとしても何の不思議もない。】


話を戻すと・・・成文化された最古の法典は、紀元前1,700年頃に発布されたハンムラビ法典である。(メソポタミアでは、それ以前にシュメール人やアッカド人達が法律を作り国をまとめていた。)この法典は、刑罰だけでなく、商法、財産法、家族制度、など人々の生活に関わる細かな分野にまで及んでいる。
中国最初の律令は、西晋が268年に制定した泰始律令である。律は刑罰法令、令は律以外の法令に相当する。これもまた数千年の時を経て、メソポタミアから中国に法の概念がもたらされたことは自明の理である。

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(ハムラビ法典)


外海を航行できる木造船には、船体の強度を増すための竜骨が不可欠だ。その竜骨は紀元前1500年頃に、地中海に乗り出すために優れた造船技術を持っていたエジプトで作られた。その後、この竜骨構造は東アジアなど世界各地に広がってゆく。

陸上の交通機関に不可欠な車輪は、紀元前3500年ごろのメソポタミアで発明され、急速に世界各地で普及した。

(古代においても先端技術は、瞬く間に各大陸に普及している。西アジアより数千年も早く日本で発明された土器(縄文式土器)などは、朝鮮半島を経て中国に製造方法が伝わり、西アジアにまで達した逆の事例だろう)

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(縄文式土器)

紙は、中国で後漢時代の蔡倫が発明したと言われるがこれは誤りだ。紙は前漢時代の遺蹟からも発掘されていて、そのルーツはエジプトのパピルスにある。パピルスの製造方法は、基本的な部分(植物の髄から出る粘液を利用して、繊維同士を接着するなど)で、紙と同じような製造方法を持つ。

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(パピルス)

世界最古の文字は、メソポタミアのシュメール人によって、紀元前3300年頃の文書(粘土板)に書かれた楔形文字である。文字で政治経済や文学などを記すというアイデアは、やがて中近東に波及し、そこから様々な文字の開発へとつながってゆく。その後約1500年を経て、文字のアイデアは中国に伝わり、それが甲骨文字誕生の切っ掛けとなったことは容易に想像できる。

文字は、抽象的な線に意味を持たせると言うアイデアさえあれば、ハングル文字(1446年に李氏朝鮮第4代国王の世宗によって作られた)やモンゴルのパクパ文字(1269年制定)のように、ほんの数人で生み出すことが可能だ。

ちなみに朝鮮のハングル文字は、高麗王朝時代に、その宗主国であった元(モンゴル帝国)のパクパ文字をヒントにして作られた歴史の浅い文字である。

その他、西アジアから中国へ伝わったものを記せばきりがない。宗教で言えばゾロアスター教の影響があり、また現代社会に不可欠な印鑑(印章)や時計(日時計、水時計)、ソロバンなどなどである。



過剰なまでに自己中心的な中華思想をもつ漢民族は、異文化の影響を受けてその文化が発展してきたという歴史を歪曲し捏造して恥じない。

中国大陸は古来より、西方から移住してきた多くの異民族が斑模様のように広がり、数多くの国家を築いていた人種の坩堝だった(追記参照)。

漢民族は、その西方からの異民族を「化外の民」と呼び蔑むが、その実、漢民族の歴史は異民族に支配され、その先進的な文化を取り入れてきたに過ぎない。


チベット侵略や南京大虐殺のように歴史を捏造し、嘘を恥ともしない中国や中国人の道徳観のなさは、何も今に始まった事ではないのだ。以下・・・追記
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2010年09月21日

保守とは何か?

保守(Conservatism)とは何かこれを簡潔な言葉で表せば「公共を重んじる人々」と言うことになる。

対してリベラル(liberalism)とは、「個人を重んじる人々」だろう


戦後の日本社会は、日教組に代表される左翼的リベラルが、一貫して「個人の権利」ばかりを追求してきた時代だった。教育現場では・・・生徒は過度に「個人の権利」を教えられ、「国民としての義務」はおざなりにされてきた。

その結果が、学級崩壊であり、モンスター・ピアレントなど常軌を逸した人々の出現であり、行き過ぎたほどフライバシーや人権を慮るために、虐待される子供たちを救えないという社会の出現である。

左翼的リベラリストは、社会秩序を破壊することは得意だ。彼らが推進する、人権擁護法案、外国人地方参政権、改正移民法等々が好事例だろう。


世界には、誰もが個人の事しか考えない,そんな価値観を持つ人々が暮らす国家がある。ずばり、それは漢民族が支配する中国だ。彼らには道徳観念や公共を重んじる精神がまったく欠落している。個人だけならまだしも、国家自体が取れるものなら、何でも奪ってやれと言う無法国家だ。尖閣諸島や東シナ海のガス田問題などが良い例だろう。


日本は古より、聖徳太子の17条の憲法「和を持って尊しとす」の精神が示すように、個人よりも「社会の公共性と義務」に力点が置かれた社会を育んできた。

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聖徳太子

現在の憲法でも・・・第3章 国民の権利及び義務。第12条 【自由、権利の保持の責任とその濫用の禁止】
 
「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。 又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」とあるように、過度の個人の権利は公共の福祉に反するとされている


日本の社会が、世界で最も安定し、暮らしやすいのは、この古から培われてきた「公共の精神」の賜物である。

私は、人々が個人の権利だけを追求する、公共性や道徳性の失われた、中国のように無味乾燥で殺伐とした社会に生きたくはない。

戦後の左翼教育の集大成のような、プロ市民上がりの政治家がついに首相となった日本。子供たちの未来に大いに不安を感じる。

保守(公共精神と義務を重んじる人々)の復活は、もう望めないのだろうか・・・
posted by かたばみ at 10:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 偉大なる先人達 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月08日

朝鮮語の起源は、縄文人の言語

最近、「日本語の起源は百済語」という韓国の学者のトンデモ本を書店で見かけました。この著者・・・気は確かなのでしょうか? 
何故なら、百済語なる言語に関する文献は、朝鮮半島はおろか、中国や日本の古い書物にもまったく存在しません。

そもそも、訓民正音創製(1443年)以前の古代朝鮮語(百済語ではない)なる物ですら、誰にも分からないのです。
(国家の品格の著者・藤原正彦氏によれば・・・現在、古朝鮮語は200語ほどしか残されていないそうですね。)

(朝鮮民族は、縄文時代からはぼ人種が固定化され長い歴史を持つ日本民族とは異なります。直近でもモンゴル人の支配を受け、混血が進みました。言語の変遷も相当なものでしょう)

韓国の学者の論拠は、古事記など古い大和言葉と、さらに時代を何百年も下った朝鮮語に、たまたま似通った言葉があるからというだけの、馬鹿馬鹿しい屁理屈に過ぎません。また、百済という国名があるから、百済語が存在したはずだというのは、邪馬台国という国があるから、邪馬台国語があったというようなもの。朝鮮半島で話されていた新羅や百済の言葉に明確な違いが在るのか、方言ほとの差なのかさえも分からないのです。
 無から有を生じるのが得意な、朝鮮民族とは言え、呆れるばかりです。

これはむしろ、逆だったのだろうと思います。
以前に「朝鮮半島からは、縄文時代に相当する時期の人骨が殆ど出土していない」と考古学資料から引用したように、縄文人は朝鮮半島に住む民族がまだ少ない時期に、「朝鮮半島・東三洞の貝塚から出土した九州の縄文土器をよく見ると、形や文様が九州本土から出土する縄文土器と微妙に異なることが分かってきました。おそらく、九州から渡っていった縄文人が、その周辺で長期滞在して記憶がうすれたか、2世が土器を作ったために、九州にない九州の縄文土器になったのでしょう」・【発掘された日本列島2007(文化庁編・朝日新聞)】とあるように、半島南部に進出し、縄文土器などの先進的文化を持ち込み定住していました。

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東三洞の貝塚

(ちなみに、その頃の日本は木造建築の技術も相当進んでおり、長浜浩明氏の著書によれば「木造建築の先進性の証拠として、1万2千年前から弥生時代まで続いた富士山の桜町遺跡から、精巧な木組みを用いた4千年前の高床式建物が出土した。この事実から、高床式建物は稲作と共に渡来人がもたらした、なる説も「誤」であることが確定した。そして約35センチを単位とする尺度があったとも考えられ、奈良の法隆寺や東大寺の技術基礎はこの時代から育まれていたのである」という)

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桜町遺跡


以前にも書いたように、日本人は縄文時代にはすでに、言語・文化・人種・地理的にも倭人としてのアイデンティティーを確立していました。
(中国の文献には、倭人の言語が、他の民族とハッキリ区別できるとの記述が見えます。その中国は、今世紀にいたるまで、山を一つ越えると、言語が異なる多くの異民族同士が、集まって暮らしている砂のような国家でした。これは、日本統治以前の朝鮮半島でも言語的には似たようなものです。


その、朝鮮半島に定住し、また、時代を下っても尚、朝鮮半島に、大きな影響力を持ち続けた縄文人(倭人)の言語が、それ以降の朝鮮半島に大な影響を与えない分けがありません。

日本語と朝鮮語の語順など文法が似通っているのは、この縄文人の言語的影響が大きいのでしょう。
(現代でも、朝鮮語の約90%が日本語で、それを朝鮮式に発音しただけであり、その影響は朝鮮民族がまったく自覚していないほど自然に溶け込んでいます。

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【追記】

そもそも、日韓併合以前の朝鮮半島では南北、あるいは地域によって異なった土着言語が使われており、標準語(現在の朝鮮語)そのものが存在していなかった。

また支配者層である両班は、マンダリン(中国の公用語である官話)を使用し、土着の朝鮮語を蔑視していた。

現在の朝鮮語なるものは、朝鮮総督府(日本)によって、釜山周辺で使われていた日本訛りの朝鮮語を基礎にして作られたものだ。

その際、文法や語彙に欠損の多い朝鮮語を補うために、文法体系としては日本語の橋本文法 (学校文法)、語彙としては現在の中国語の約80%を占める和製漢語(日本語)が使われた。

だから、現在使われている朝鮮語は、日本語と文法や単語が共通していても当たり前なのだ。

結論をいえば・・・現在の朝鮮語なるものは日本語のサブセット言語、つまり亜種である。




参考(朝鮮半島への、倭人の影響力の範例)

@『三国史記』新羅本紀にあるように、「新羅より南方を一貫して”倭地”として扱っているのは、そこでは、倭人・倭種が政治の主導権を握っていたと見るほかはない」・・・(日韓がタブーとする半島の歴史)

A「新羅の4代目の王・解脱とその子孫の新羅の国王が倭人だった」・・・新羅本紀

B「新羅も百済も倭国を大国と見ている。優れた品々が多いためで、新羅も百済も倭国を敬仰し、常に使節が往来している」・・・中国の正史・「随書」
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2010年07月25日

「弥生人=渡来人」説の大嘘 @(病理学的・骨考古学・考古学遺跡・遺伝的見地からの否定)

私が学生時代には・・・弥生時代に大陸から多くの渡来人(弥生人)が日本列島に移住し、文化的に劣る縄文人を淘汰して、弥生文化を築きあげたと教わった。しかし、いまやこの縄文・弥生観は、誤った古臭い認識と言わざるを得ない。
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菜畑遺蹟・日本最古の水田跡(佐賀県)

各分野(遺伝学・古病理学・考古学等)の調査技術の進歩がもたらす最新データから、解明される古代史からは、朝鮮半島こそ逆に日本の文化や人的進出の影響を受けていたことが明らかにされている。

以下・・・散文風に「日本人のルーツの謎を解く」展転社・長浜浩明著を引用しつつ、「渡来人の大移住」「弥生人=渡来人」説の嘘を検証していきます。(ぜひ・・・心ある日本人の方には、日教組の自虐史観からの洗脳を払拭するためにも、この書籍の購読をお勧めいたします)

その@・・・「弥生人=渡来人」説の否定(病理学の見地から検証)

「成人T細胞白血病・ATLの患者やキャリア(東アジアでは日本人しかいない。中国・韓国には如何に調査してもまったく発見できない)の分布が九州や沖縄で圧倒的に集中していることから、ATLゼロの渡来人が北部九州に上陸し、稲作を始め、縄文人と混血し、人口が増加したのなら、その地のキャリアが真っ先に最小となるはずなのに逆に多くなっていると」言う点。

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菜畑遺蹟

「@ATLウイルスを持たない多くの渡来人が大陸や半島から渡来したのなら、わが国で最初に水田稲作が行われた北部九州や土井ヶ浜付近からゼロになるはずである。
Aだが、菜畑遺蹟のある佐賀、板付遺蹟のある福岡、土井ヶ浜のある山口県西部のあたりにキャリアが多く、対馬、隠岐の島、五島列島、長崎などはさらに高い感染率になっている。ついで多いのが近畿となっている。
B縄文人と渡来人との混血がキャリア減少の原因なら、渡来人が最初に上陸し、より早くから混血が進んだであろう、九州や近畿などの方が、関東や中部よりキャリアが少なくなって当然である。
C従って北部九州へとやって来た渡来人は少数だったし、子孫も少なかったと断ぜざるを得ない」



そのA・・・縄文人と弥生人の骨格の比較から「弥生人=渡来人」とする嘘。

骨格や歯型の比較から、「弥生人=渡来人」とする説には、重大なデータの欠落がある。それは、「縄文時代の終わりから弥生時代の開始時期にかけての、最も肝要な移行期の人骨がほとんど発掘されておらず、欠落していることである」

これを分かり安く例えれば・・・江戸時代から現在の日本人へと続く、「移行期の人骨データ」が欠落しているにもかかわらず、単に江戸時代の人骨と現代の日本人の骨格を比較して、アゴや頭骨・歯型・身長がまったく違うから、現代と江戸時代では人種が違っていると言っているに等しいぐらい馬鹿げた検証と説である。

戦後から今日にかけても、短期間のうちに、欧米化した食生活で日本人の骨格は、アゴが細く面長となり、ラングイ歯が増え、身長も高くなった。千年以上も隔たりがある縄文と弥生時代ならなおさら、骨格や歯の変化は大きい。

食文化の改善から言えば、栄養価の高い米作りは、日本の方が朝鮮よりも三千年も早い。(半島の米作りは紀元前1千年頃、すなわち今から約3千年前に畑作物として、栽培され始めた。日本の陸稲は6千年前の縄文時代にまで遡る。稲作は遺伝子の研究から、日本から朝鮮半島に伝播したことが、近年明らかになっている)

「縄文時代から弥生時代にかけては、日本の歴史上最も劇的に人々の生活が変わった時期である。農耕が本格的に始まり、主食もドングリからコメへと変わった。いずれにしても、新たな人々の流入が無くても当時の顔型や体つきの変化は十分説明が付くという点で渡来説とは真っ向ぶつかるものだ」

縄文人の食文化を補足すれば・・・縄文人は現代人が考えている程、狩猟に頼り原始的な貧しい暮らしをしていたわけではない。むしろ世界四大文明よりも、海の幸山の幸や農作物に恵まれ、四大文明より約三千年も先に発明された世界最古の縄文土器に代表されるように文化的にも、豊かな生活を送っていた。

菜畑遺蹟では「コメ以外にも、アワ、ソバ、大豆、などの穀物類に加えて、メロン、ゴボウ、栗、桃などの果実・根菜類も栽培していたことが判明した。中でもメロンが縄文後期に栽培されていたことは大きな驚きだった。さらに平成元年の発掘で儀式に用いたと思われる形のままの数頭のブタの骨が出土し、ブタが家畜化されていたことを裏づけた」 尚、この遺蹟からは石包丁、クワ、カマ、などの農機具、甕、壺、スプーン、フォーク、などの食器類などなどが出土している」


朝鮮人は、スプーンの作り方を日本人に教えてやったと自慢するが、「朝鮮なる国が体を成してしない3千年以前から、当時の人々はスプーンを使っていた」これはスプーンに限らず、漢字や鉄器などにも言えることだろう。

ついでに言えば・・・3世紀になっても、先端技術である鉄器の製造技術でさえ朝鮮人は倭人に劣っていた。(3世紀の倭人の刀剣は鍛造で作られていたが、朝鮮半島ではまだ鋳造で製作していた)

鍛造と鋳造では刀剣の強度が格段に違う。例えて言えば・・・木刀とガラスの剣で剣道の試合をするようなもので、鋳造製の剣は鍛造製の剣にいとも簡単にへし折られてしまう。

武器に、これ程の差がある事からすれば、倭人にとって朝鮮半島に進出することぐらい、いとも簡単なことだ。(半島南部に倭人の文化が多いのは、この事実・武力の差を裏付けるもの)



そのB・・・考古学遺蹟から見る「弥生人=渡来人」説の嘘

日本最古の水田跡がある佐賀県の「菜畑遺蹟は渡来人が最初に入植したムラではありえない。何しろ、縄文人の人たちのムラである証拠は山ほどあるが、シナ大陸から渡来人がやって来たという証拠は皆無なのだ。証拠に基づいて語れば話は逆で、縄文時代から九州の人たちは朝鮮半島南部に進出し、日本との間を行き来していた」

「北九州に成立した水田稲作文化は急激に東へ波及し(中略)。その波及には、多くの大陸伝来の要素が欠落しており、まさに縄文文化の中に稲作だけが持ち込まれた状態を示している。また、この地域では土偶・石棒のような縄文文化独特の精神的道具を保持しているのである。従って、この稲作の波及には渡来人の関与はなかったと考えるのが妥当であろう」


「北部九州から漢代の大陸系集落や土器・生活用具が出土したと言う話など聞いたことがない。つまり、大陸から渡来人がやって来たと言うのは単なる推測であり、物的証拠は相変わらずゼロである」

考古学的資料から導き出される結論は・・・渡来者の数は1年に2〜3家族ほどパラパラと来た程度であり、縄文人=弥生人の社会の片隅で細々と暮らし、やがては文化的にも人種的にも倭人に吸収されていったという考古学的事実である。

縄文時代に、地理的・人種的・文化的・言語的に倭人としてのアイデンティティーを確立し、大陸から独立した文化を形成した倭人の歴史に、渡来人の関与は殆どなかったと言える。



そのC・・・遺伝子から見た「弥生人=渡来人」の嘘

これについては、説明が長くなりますから前述の著書を参照してください。ただ、倭人(縄文・弥生人)が朝鮮半島南部に進出していた根拠をDNAデータから記述しておきます。逆ではなかったのです。(朝鮮半島から来た渡来人より、倭人の方がはるかに多く半島に進出していた)

「これまで、朝鮮半島と縄文人との関係について考えられることは殆どありませんでした。それは朝鮮半島からは縄文時代に相当する時期の人骨が殆ど出土していないためで、人類学者はその関係を考える資料を持たなかったのです。
その結果、これまでの人類学の理論は、弥生時代になって急に朝鮮半島との間に交流が生まれたような印象を与えるものでした。しかし、DNAの相互検索の結果を見る限り、朝鮮半島にも古い時代から縄文人と同じDNA(大陸には存在しない)を持つ人が住んでいたと考えるのが自然です。

考古学的な証拠からも、縄文時代の朝鮮半島と日本の間の交流が示されています。縄文時代、朝鮮半島の南部には日本の縄文人と同じ姿形をし、同じDNAを持つ人々が住んでいたのではないでしょうか」


つまり・・・まだ朝鮮半島に殆ど人が住んでいない縄文時代に、北部九州から縄文人は海を渡り、朝鮮南部に進出し、稲作の伝播や縄文弥生土器などの半島出土品から見られるように、半島南部に倭人文化をもたらしたことは否定しようがありません。


余談ですが・・・これからは、韓国・朝鮮の学者が、歴史を文献(日本書紀や魏書など)の恣意的解釈で捻じ曲げたり、あるいは左翼歴史学者が「渡来人の大量移民があった」とする結論ありきの前提で、大陸の歴史に合わせて、遺蹟の年代を繰り下げる(捏造する)という分けには行かないだろうと思います。

彼らが歴史を捏造し、それを政治利用し、あるいは在日朝鮮人による不当な利権獲得の道具としてきた過去を思えば、考古学的データの分析技術の進歩は、日教組教育により誤った歴史認識を植えつけられてきた戦後世代への啓蒙に、大いに寄与することだと思います。
posted by かたばみ at 17:27| Comment(18) | TrackBack(0) | 偉大なる先人達 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月13日

縄文人は朝鮮半島に進出していた。

最近の考古学や遺伝子の研究から、朝鮮半島より早くから稲作(日本では縄文時代、約6千年前から陸稲が栽培されていた。今日では遺伝子の研究から、稲は日本から朝鮮半島に伝播したことは周知の事実です)を行っていた縄文人が、約千年を掛けてその食生活の変遷から、骨格が大きく変貌し、弥生人へと身体的特徴を変えて行ったことが分かってきました。また遺跡の発掘調査からもこのことが裏づけされています。

今日の考古学では、最近の発掘資料から、弥生時代に大陸から渡ってきた渡来人は、年に2,3家族ていどでしかなく、シナ大陸や朝鮮半島から「渡来人が大挙して押し寄せてきた」というのは、遺伝子研究や発掘資料の少なかった過去のデータからの誤った認識だったと考えられています。

繰り返して言えば・・・最新の遺蹟の発掘調査から分かった事柄は、渡来人の数はごくわずかで、倭人の歴史に影響を与えるほどではなく、縄文人や弥生人の社会の隅で共存しながら細々と暮らし、やがて倭人に人種的にも文化的にも吸収されて消えてなくなったという事実です。

したがって、弥生人=渡来人が稲作を持ち込み、縄文人を駆逐していったとの説は誤り。実情は、「朝鮮半島からのボートピープルが見たものは、500年以上も水田耕作を行い文化的にも進んだ倭人(弥生人)の社会だった」と言うことです。

世界の四大文明より数千年も早く土器を作り、これまた最古の漆器を発明して人類の食文化に画期的変革をもたらし、世界では新石器時代にしか存在しない磨製石器を旧石器時代に作り上げた縄文時代の日本はまぎれもなく、文化の先進的地域でした。

時代を下っても同様で、弥生人(倭人)は朝鮮半島南部にまで進出し、倭人文化(糸魚川のヒスイ製勾玉、前方後円墳など)を持ち込んだことは考古学的事実です。

だから・・・古代の中国の文献に「新羅や百済は、倭国が大国だから朝貢している」と書かれているのでしょうし、数代にかけて新羅の王は倭人だったと言う事実があるのです(これは朝鮮最古の歴史書・三国史記に書かれています)。

参考・・・【三国史記】は、高麗17代仁宗の命を受けて金富軾らが作成した、三国時代(新羅・高句麗・百済)から統一新羅末期までを対象とする紀伝体の歴史書。

縄文人から引き継がれた日本人特有の遺伝子が、朝鮮半島にもあるのは、倭人の半島南部進出で原住民との混血が進んだからです。百済など朝鮮半島南部の朝鮮人が、倭人の文化的政治的影響下にあったことは否めない事実なのです。


古代日本と朝鮮に関心のある方は・・・下記の書籍を読んで見られることをお勧めいたします。

【日本人ルーツの謎を解く―縄文人は日本人と韓国人の祖先だった!   長浜 浩明 (著) 】
http://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%84%E3%81%AE%E8%AC%8E%E3%82%92%E8%A7%A3%E3%81%8F%E2%80%95%E7%B8%84%E6%96%87%E4%BA%BA%E3%81%AF%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%A8%E9%9F%93%E5%9B%BD%E4%BA%BA%E3%81%AE%E7%A5%96%E5%85%88%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F-%E9%95%B7%E6%B5%9C-%E6%B5%A9%E6%98%8E/dp/4886563430/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1278905863&sr=1-1

第1章 司馬遼太郎・山本七平の縄文・弥生観は失当だった。
第2章 縄文時代から続く日本の米作り。
第三章 縄文・弥生の年代決定に合理的根拠はあったのか
第4章 反面教師・NHK「日本人はるかな旅」に学ぶ
第5章 もはや古すぎる小山修三氏の「縄文・人口推計」
第六章 机上の空論・埴原和郎氏の「二重構造モデル」
第7章 統計的「偽」・宝来聡氏の「DNA人類進化学」
第8章 ためにする仮説・中橋隆博氏の「渡来人の人口爆発」
第9章 「Y染色体」が明かす事実
第10章 言語学から遡る日本人のルーツ

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2010年04月12日

進んでいた日本の旧石器時代

ヨーロッパの考古学会では・・・「磨製石斧の出現」を持ってして新石器時代と位置づけている。約1万2千年前以降のことである。

ところが・・・驚く事に、日本ではこの砥石で石器を磨いて仕上げる技術が、すでに旧石器時代の3万5千年前から始まり、磨製石斧が製造されていた。 

なんと、当時の世界では存在しないはずの磨製石器が、約2万年も早く日本には既に存在していたということだ。

局部磨製石器.jpg

現在では北海道から奄美大島までの全国約200の旧石器遺跡から、650点以上の磨製石斧が出土している。(【人類がたどってきた道】生物人類学・古人類学者海部洋介著・・・・参照)

海部氏によれば、日本の磨製石斧(刃の部分を研磨しているところから、局部磨製石器とも言う)は、世界最古であり、かつその出土数に於いても他地域を遥かに凌駕していると言う。



ところで・・・この旧石器時代の磨製石器は、中国はおろか、朝鮮半島ななどの周辺地域では出土例がない。

この他にもナイフ形石器、台形石器、独自の石刃製作法である湧別技法など、日本列島で独自に発達した石器やその製作法が存在すると言う。

旧石器時代から日本は、当時の先端技術である石器の製作でも、中国を凌駕していたと言う事だ。

磨製石斧は、その後、金属性の斧が普及するまで木の伐採や加工に使われた。この石斧は硬い木(栗)などを切り出すのに適している。(杉など柔らかい素材では、木目がつぶれて加工できない)

古代の日本で栗の木が使われたのは、石斧で加工が出来るという以外に、栗の木は土中でも杉などと違い腐食しにくく数百年も柱として使用できるからだ。

(柔らかい杉が建材として使われ始めたのは、西アジアから伝わった新しい建築方法、石の上に柱を立てる基礎工法と鉄器が中国を経由して伝わってからである)

つまり・・・旧石器時代から日本は、早くからオリジナルな文化が存在し、世界最古の縄文土器による煮炊き文化と磨製石斧による建築技術やその他の狩猟などの石器文化は、中国よりも遥かに進んでいたと言うことだ。

(その後の中国文化の発展は、西アジアからの青銅器文化や鉄器文化の伝播と農業技術の導入抜きには考えられない)
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2009年07月15日

「漢民族の歴史を中国史に塗り替える」中国共産党の偽史と少数民族支配の欺瞞

漢民族が、周辺の異民族を感化し中国文明を作り上げてきたというのは歴史的事実に反する。実情は異民族に征服され、統治されることでその異文化の恩恵を受けて漢民族は進歩できたのだ。

事実、漢民族が中国を支配した時代はその歴史の約1/4程にしか過ぎず。秦や元などの異民族が支配する時代にもっとも文化的な発展をしている。

(秦人はもともと、甘粛省の草原の遊牧民「西戎」である。ちなみに唐の高祖・太宗とも鮮卑であり漢民族ではない。彼らはその姓を「李」といいその始祖を李玄盛といい、今の甘粛省の人だ)

kannsyukusyo.png

地図参考・・・【甘粛省】 中国大陸の北西に位置し、西に新疆ウイグル自治区、青海省、北に寧夏回族自治区、内モンゴル自治区、南に四川省、東に陝西省と接している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%98%E7%B2%9B%E7%9C%81

つまり、歴史的に漢民族(実は諸民族の混血種)の支配する中原(黄河中・下流域)とは、異民族(秦など)が支配する広大な地域の一部でしかなかった。異民族に支配されることで、その領土が拡大し、文化が発展してきたというのが中国の真の歴史だ。大都(今の北京)を作ったフビライにしても、支那(中国)はその支配する広大な地域(チベット・モンゴル・ウイグルなど)の一部でしかなく、彼は支那を管理するために定期的に大都を訪れるだけで、そこから南(支那の地)には一度も足を踏み入れたことは無い。

秦や元、或いは清にしても、その政治システムや文化は漢民族が作り上げたものではない。支那は支那の政治システムに任せただけで、その上にモンゴルなど支配民族の統治システムがある。(元では、漢民族の身分は色目人[イラン人など]より格下で、金の支配下にあった河北の漢人が第三番目、南宋の支配下にあった南の漢人は第四番目であり、中原「中華」に行くほど身分が低い)

支那の語源でもある異民族の秦によって初めて中国大陸が統一され、支那人(現在漢民族と言われている混血民族)が人為的に作り上げられたが、そのシナ人は、周知されているように、異民族国家の乱立期(五胡十六国から南北朝にかけて)に戦火による大虐殺でその人口が約700万人まで激減した。

それ以来漢民族に代わって蒙古、系ツングース系、チベット系、南方系が中原を占めるようになる。これら混血民族の子孫である今の支那人は、勝手に漢民族だと自称しているに過ぎない。

結論を言えば・・・中国の歴史とは「漢民族の歴史」ではなく、異民族の歴史を継はぎした物に他ならない。


その異民族の歴史と文化の継承してきたに過ぎない中国を中国政府(中国共産党や国民党)はどう見てきたか。

中国共産党の見解は右記の通りである。「伝統的には中華と夷狄は区別されていたとしても、近代国家建設においては、中国という枠組の中に、そこに住む民族はすべて『中華民族』として融合されてきた」と言っている。

だから、漢民族はもとより、チベット民族、モンゴル民族、ウイグル民族やその他少数民族は中華民族の一員だとの主張なのである。

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(ウイグルの少女)

しかし、この論理は支配される少数民族(決して少数ではないが)にしてみれば、それは漢民族(中国共産党や国民党)の身勝手な言い分に過ぎない。

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(インド西部ムンバイの中国大使館前で警官に取り押さえられるチベット人青年)

事実、元朝のみならず清朝でもウイグルやモンゴル、チベットは決して中国(支那)の一部ではなかった。支那の統治に関しては、科挙により役人になった者が行政に参加できたが、それ以外の帝国全体の統治システムは満州人(清の民族)の仕事であり、中国人(支那人)は参加できなかった。(その税制も5つの国ではまったく違う制度を設けていた。モンゴル帝国の後継者である清朝では、モンゴル人からは一切税金を取っていない)

また、辛亥革命の基本的理念は、光復革命(野蛮な異民族支配を打倒し、優れた漢民族による異民族支配の確立を目指した革命)の実現であり、孫文でさえ自惚れにすぎないの中華思想から、優秀な漢民族が中国を統治するのが望ましいと述べている。

異民族(モンゴル・チベット・ウイグル)の側からすれば、漢民族が光復革命を掲げて清朝から独立するのであれば、我々も同様に清朝からの独立を目指すことが出来るということになる。

実際、モンゴルはそう宣言し、ソ連の支援のもとに中国共産党の支配から辛くも抜け出すことが出来た。


今日の少数民族の悲劇の根源は、孫文の「建国方略」にある。彼は中国の実業振興をうたい文句にモンゴル、ウイグルへの漢民族の殖民を推進し、鉄道網の整備を計画推進した。その目的はウイグル自治区などの鉱物資源の獲得である。

いわく「モンゴル、新疆への殖民は、鉄道計画を補助するものである。(中略)移民の数は1千万とし、人口が多い省から西北地域へ移し、自然の富源を開発すれば、商業活動の利益があまねく広がってく」・・・つまり人口の少ない少数民族の地域に漢民族を送り込み、漢化させるという構想だ。

【漢民族のウイグル人弾圧】
http://www.google.com/imgres?imgurl=http://img.youtube.com/vi/zz4PwTMnXVY/2.jpg&imgrefurl=http://youlist.jp/v/V25huimxsGg&usg=__dPJMMFI4H2O3ClQNGU04eCFtWEc=&h=97&w=130&sz=4&hl=ja&start=5&tbnid=iSCndEtf1I2whM:&tbnh=68&tbnw=91&prev=/images%3Fq%3D%25E3%2583%25A6%25E3%2583%25BC%25E3%2583%2581%25E3%2583%25A5%25E3%2583%25BC%25E3%2583%2596%25E3%2580%2580%25E3%2582%25A6%25E3%2582%25A4%25E3%2582%25B0%25E3%2583%25AB%25E6%259A%25B4%25E5%258B%2595%26hl%3Dja%26sa%3DG

民主党や自民党中川秀直氏などが推し進める「移民の1千万人受け入れ計画」の数字と「孫文の移民計画1千万人」の数字が同じと言うのは、何か因縁を感じるものがある。
中国の侵略は・・・漢民族の移民を受け入れる事から始まると言うのは、歴史が証明している。



「中国歴代戦乱編年史」柏楊氏によれば、中国は有史以来、現代に至るまでの4千年間、毎年必ず国内のどこかで戦争があったと言う。


中国では戦乱のたびに、人々は食料を奪われ、都市機能や利水設備が破壊されて農地が荒れ果てる。その上大旱魃が繰り返し襲うので、飢饉のたびに木の根から昆虫までを口にしてもまだ足りず、人肉を食うのが当たり前の世界で生きてきた。(事実、中国ではそれが、何千年も食文化として継承されてきたし、孔子は塩漬けの人肉が大好物だった)

kousi.png


そのため「中国人はいつも不安を感じているので、他人を一切信用することがなく、もちろん政府も信用してはいない。今日一日が無事に過ごせれば良いと思うと同時に、少しでも良い食事と仕事を与えてくれる為政者であれば、国民党であろうが共産党であろうが構わない。そんなことよりも、自分の生活がまず第一である。そして、他人にたいしては決して弱みを見せてはならず、逆に相手の弱みに付け込まなければならないと考え、絶えず緊張している方が立派な人物だという評価を受ける」という。

これでは、日本人の美徳「道徳的であること」や「謙譲の精神」などは、中国人に理解されるはずもなく、かえって小馬鹿にされ付け込まれるだけだろう。(外交問題の一つである尖閣諸島の両国の対応をみれば自明の理そのものだ

もう学ぶ物なしとして遣唐使を廃止した菅原道真の英断には、敬意を表したい。恐らく彼はこのような中国人の価値観が、日本人には相容れられない程はかけ離れていることを理解していたに相違ない。

引用文献・・・「中国の異民族支配」横山宏章著・集英社新書
       「侵略と戦慄・中国4千年の真実」杉山徹宗・祥伝社
        その他
posted by かたばみ at 10:04| Comment(1) | TrackBack(0) | 偉大なる先人達 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月12日

本当に鉄の製造技術の伝播は、朝鮮半島が先だろうか?

最近放映されているNHK特集「日本と朝鮮半島2000年」では、あたかも製鉄技術が朝鮮半島からもたらされたかのように印象操作された放映がなされていた。それは、果たして事実なのだろうか?

この番組・・・ディレクターが田容承という韓国人だと言うことを知る人は少ないだろう。何故NHKは、日韓で認識の違いすぎる両国の歴史問題を韓国人に任せるのか。そこにある種の悪意に満ちた意図を感じずにはいられない。

戦後NHKの歴史番組が一貫して、中立的立場からは程遠い左翼史観で描かれてきたことは周知の事実だ。戦後の日本が過度に左傾化してゆく過程は、以下の著書「新歴史の真実」に詳しい。


今回の明らかに中国共産党の意向に沿ったNHK特集「ジャパン・デビュー」に関しては、東京・大阪・名古屋・札幌・福岡の各都市で台湾人や市民によるデモが行われ、ネットでは公共放送の公共性が確保されるまでは受信料を拒否する運動が広がっている。

【NHKに抗議】中国目線で作られた、反日 台湾番組【JAPANデビュー】
http://www.youtube.com/watch?v=C5CaPdMV-hw&feature=related

NHK「JAPANデビュー」に抗議する国民大行動・第2弾(1/3)
http://www.youtube.com/watch?v=pXfkWH9ZSzs
NHK「JAPANデビュー」に抗議する国民大行動・第2弾(2/3)
http://www.youtube.com/watch?v=wc8UutVd8so
NHK「JAPANデビュー」に抗議する国民大行動・第2弾(3/3)
http://www.youtube.com/watch?v=j_QOie7J8QY




さて本題・・・実際には鉄器の製造技術は、日本の方が朝鮮半島より古いと思われます。事実、日本では弥生時代あるいは縄文時代に遡る遺跡や出土品(鋳造の板状鉄製品・鍛冶滓)が数多く発掘されているのです。

【遠所遺跡】
http://inoues.net/tango/enjyo_iseki.html
『丹後地方では、すでに弥生時代前期末から中期初頭の峰山町扇谷(おうぎだに)遺跡から鉄器生産に伴う鍛冶滓(かじさい)が出土しており、鉄器の生産が行われていたことが知られている』

板状鉄製品.jpg 

【扇谷遺跡】
http://inoues.net/tango/ohgidani.html
『扇谷遺跡の環濠からは、丹後の弥生時代を象徴するような、「鉄」「玉」「ガラス」が出土している。同じく丹後の弥生の象徴である台状墓も、隣接する七尾遺跡から2基見つかっている。環濠からは他にも、土笛、多数の紡錘車等が出土したほか、鋳造の板状鉄製品(インゴット)、鍛(たん)造の鉄も見つかっている。ガラスの塊、鍛冶滓なども出土している事から、ガラス生産と、低温の鉄製品生産の可能性もある。』

鍛冶滓.jpg

扇谷遺跡.jpg

潮見浩『東アジアの初期鉄器文化』・・・参考文献

朝鮮には,まず紀元前3世紀ごろに鉄器が流入する。それは,中国の東北部からもたらされたものと思われる。その後,漢代の楽浪郡の設置以後に,その鉄器文化の影響を受け,朝鮮独自の青銅器類が鉄器にとってかわられる。

 日本への鉄器の流入は,すでに,弥生時代の初頭から始まっていたとみられる。熊本県斉藤山遺跡からは,中国では戦国時代から前漢代にみられるものと同様な形制をとる鉄斧が出土しており,それは最古の弥生式土器である板付 I 式土器と共伴している。その他にもいくつかの弥生時代前期の遺跡で鉄器の出土が知られている。ただし,この時期には,実用利器としてはまだ石器が主流であったと考えられる。また,分布地域は西日本に限られる。弥生時代中期以降は,鉄器の分布はさらに広がり量的にも前期を大きくうわまわる。鉄器の生産は,九州では中期の前葉からはじまったと考えられる。しかし,いまだに石器が実用具の主流を占めていた。弥生時代後期には,鉄器の出土例は激増する。特に,西日本では石器類が姿を消し,実用利器が鉄器に交替したことが推察される。古墳時代前期には,古墳から多量の鉄器が出土し,一方では住居から出土する場合はまれであり,鉄器の集中所有化がうかがわれる。弥生時代後期における鉄器の普及は,生産力の進展とともに,階級の分化・首長層の成立の基盤となった。後期には,鉄器の大量副葬はみられないが,各地に築造された多数の古墳には鉄刀・鉄鏃などが普及しており,住居からも農工具の出土が増える。鉄生産の各地への拡大が予想される。』


また鉄器の伝播に関しては・・・『アムール川流域では紀元前1千年紀のポリツェ文化に,鉄器が存在している。放射性炭素年代では,前980年という数値が提出されている。ポリツェ文化の鉄器には,斧・刀子・鉄鏃・小札・釣針などが存在している。実際の年代は,やや下る可能性が高い』とあるように、日本列島の北からのルートも考えなければならない。

ロシア考古学界では、沿海州地域の鉄器時代の起源をBC9世紀以前にさかのぼるとしており、今後ポリツェ文化や沿海州南部バラバシ村の住居址〈鉄斧と鉄鏃を含めた9点の鉄器と土器を含めて2000点余りの遺物が出土〉の詳しい発掘調査の結果が待たれます。


つまり日本には・・・稲作が朝鮮半島より早く長江流域から伝播したように、鉄器とその製造技術は朝鮮半島より早く、南北のルートからもたらされて可能性が大きいのです。

<strong>任那日本府(朝鮮半島南部)で鉄のインゴットが多く出土し倭国が鉄をそこから求めたのは、単に良質な鉄鉱石が取れたからに過ぎないのではないでしょうか。

朝鮮半島南部の倭人による鉄鉱石採掘は、倭人にとって現代日本人が先端技術に欠かせないレアメタルを後進国で採掘するようなものと考えられます。

つまり、倭人が朝鮮半島南部でインゴットを現地生産し、国内に流通させたと考える方が妥当でしょう。
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2009年04月23日

中国への古代東南アジア文化と西アジア文明の影響

日本の歴史を考える場合、まず中国から文明が伝わったと教えられます。しかし太古からの文明の伝播を考えるとき、果たして本当に【中国が起点】でいいのでしょうか?

以下・・・雑学風に思うまま、取りとめもなく書いて見たいと思います。


現生人類・ホモサピエンスは今のヨーロッパやレバント地域(地中海沿岸)に到達するより先に、オーストラリアに殖民して壁画を描くなど進んだ石器文化を既にもっていました。

ホモサピエンス.jpg
(日本人はるかな旅展・ホモサピエンスの世界進出より地図のコピー)
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/1/1-14.html

この事実を知らない人は結構いるようですが、その海岸狩猟民族のルートはアフリカの悲しみの門(バブ・エル・マンデブ海峡)を通り、アラビア半島の南の沿岸からインドの海沿いに、当時(6万5千年〜8万年前)は比較的陸続きだった今のカンボジアやインドネシア沿岸を経由して、オーストラリアに達するというものです。

人類の足跡10万年全史の著者 S・オッペンハイマーに拠れば、モンゴロイドが派生した大まかな地域は、大雑把に言って現在のミャンマーの当たりのようで、そこからモンゴロイドの南北分岐が始まったとのこと。

当時の地形と現在の地形は、かなり違いがありますが・・・約6万年前にモンゴロイドは、ベトナム・タイ・ラオス・ミヤンマー辺りからメコン川やエヤーワディ川など幾つも北に上る川伝いに北上し、揚子江の源流から下降に掛けて広がり、また一方で台湾から南西諸島を経由して日本列島にまで至り南モンゴロイドとなりました。

その一方でモンゴロイドの別派は、バングラデシュあたりから西回りに川を北上してバイカル湖を経由し、アムール川流域からシベリア全域やサハリンあるいは日本列島にまで達して、北方モンゴロイドとなったようです。

(ちなみに・・・ミトコンドリアの分類から、北方モンゴロイドと南方モンゴロイドの大まかな分布の境は、いまの中国揚子江をその境界としてるようです)

S・オッペンハイマーは、現生人類がその後インド洋沿岸からオーストラリアまで広がっていった速さから判断すれば、最初の現生アジア人は、祖先が東アフリカに住むようになってから7万年のあいだに、何度もイカダや船でわけなく渡っていただろうと言っています。

つまり・・・旧石器時代や新石器時代は、中国大陸よりも東南アジアの方が先に開けていて、航海技術の発達した先進地域だったのです。


日本史では、必ずと言っていいほど文明や文化の伝播は中国を起点に置いて記述されています。しかし、それでは、中国と言えども西アジアの影響を強く受けて発展してきたという、西から文化や文明の伝播があるにも関わらず、その流れを断ち切り、中国が独自に文化や文明を築き上げてきたかのような誤った錯覚にとらわれてしまいがちになるのです。

(日本でさえ正倉院には、西アジアからの宝物が数多く保管されています)
正倉院.jpg
正倉院

仮に王権の成立期が文明の一尺度だとすれば、西アジアのシュメールは紀元前約3200年前で、エジプトの古王国が約3000年前、インダス文明が約2700年前で、中国の殷はそのずっと後の紀元前1600年前に過ぎません。ユーラシア大陸の端から端までの距離を考えたとしても、千年単位での時間軸で人と物の移動を考えれば、東西の交流は活発であり、先進的文化が西から東進してきたことは否めない事実でしょう。

【シュメール人は、約5,500年前に世界最古の楔形文字を発明し、会計記録などを残していました。これは殷墟から出土した甲骨文字より約4千年も前のことです。

また彼らは、灌漑農業を発達させ、60進法や太陰暦を使用し、天文学や数学などの実用的な学問を発達させていました。これらが数千年の時をへて陸路や海路から中国に伝播していったことは容易に想像できます。

(ちなみに私は・・・旧人類からホモサピエンスが石器文化を引き継ぎ、その文化がアフリカから世界各地に広がったように、「文字の概念」も西アジアから伝播し、甲骨文字の成り立ちに関わっていたのではないかと考えています。

シュメール文字が発明されてから、その後次々とオリエント地方で文字が作られていく過程を考えれば、十分ありうることだと思います。文字の概念さえあれば、ハングルやチベット文字などのように、ほんの数人でまったく新しい文字を考案することは容易なのです)】




閑話休題・・・最初の現生アジア人の子孫でもある縄文人は黒潮を利用して、台湾や南西諸島伝いに日本列島にやってきた現生人類の航海技術を継承し、日本各地に広がり世界最古の縄文土器や同じく世界最古の漆器(現在では漆が日本で生み出されたというのは考古学の発掘と年代測定でほぼ確定的です)などによる煮炊きという食文化や様々な装飾品を生み出して、当時としては世界に類を見ない多様で優れた文化を築きあげました。

これらは、むしろ日本から中国に伝わったものでしょう。


日本で食料採集段階である縄文時代が、世界でも類を見ないほど長く約15000年も続くのは、縄文の森や海の実り豊かな自然と決して無縁はありません。その自然は今も日本列島に息づき、私たちの心を育みそして豊かなものにさせています。


その頃の日本と朝鮮との関係はどうかと言えば、以下のようですね。

考古学者・小林氏によれば・・・「縄文の場合、津軽海峡を含めて一つの文化圏を成している。言葉が通じるから行ったり来たしているんです。ところが、宗谷海峡を通ってカラフトにも行っているのですが、一度も手を結ばない。また、朝鮮海峡については、対馬は日本より朝鮮半島寄りなのにも関わらず、対馬は日本側です。その文化圏の根底にあるのは、言葉の問題です」と言っています。

広開土王碑文.jpg
広開土王碑文

つまり、縄文時代から明確に日本人と朝鮮人は民族が違っていたということです。対馬が朝鮮に属さないというのは、広開土王碑の記述にあるように朝鮮半島の南側が古代から日本の影響下にあった事実を証明する物の一つでしょう。


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2009年03月21日

古代の日本は孤島か?

多くの考古学者もその誤りを指摘するように・・・日本列島が大陸から離れた孤島だと言う、日本人や中国・朝鮮人が持っているイメージや先入観は明らかに間違いです。


現在でも輸送手段などには海上交通が重要ですが、すでに縄文・弥生時代には海上交通網が、人や物資の輸送手段として現在の人々が考えている以上に発達していました。

(考古学者・大塚初重氏によれば・・・日本は旧石器時代から船あるいは筏のようなものの存在が認められ、縄文時代にはかなりの航海術が発達していたと見られるとのこと。実際に日本産の黒曜石や翡翠や土器が産地から遠く離れた場所、場合によっては大陸から出土することでも明らかです。
 事実、日本産の翡翠は北は礼文島にまで達しており、カラフトや大陸にまで渡った可能性があり、黒曜石はシベリアのアムール川流域やハバロフスクでも出土しているし、南下すれば九州南部から奄美諸島、沖縄以南への海の道が続いていて、縄文人は早い時期から航海術を開発していて海へ進出していたと言います)


世界地図を南北逆さまにしてみれば良く分かることですが・・・日本列島は大陸に連なるように、あたかも内海(日本海)を取り巻く「弓の岬」ような位置にあります。(下はサハリンから日本列島を通り、南西諸島や台湾へと弓のように続いています)

考古学的には・・・日本列島は、大陸の南北をつなぐ架け橋のような存在で、旧石器時代から東西南北から人や物が絶えず行きかっていて、出土品も中国大陸より断然多く、文化的にも相当先進的な地域だったことは否定できない事実なのです。(東は、主に海路で)

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(縄文土器)


それに比べると・・・大陸の片隅に位置している朝鮮半島は、西アジアからの文化文明(ゾロアスター教や鉄器や青銅器など)が伝わり漸く発達をしてきた中国からの陸路が整備されるまでは、中国大陸よりも文化的先進国だった縄文時代の日本文化圏の影響を強く受けていたことでしょう。

余談ですが・・・殷が成立するまでの中国大陸は、およそ1万5千年ほど続く日本の縄文時代に比べて、文化的には後進国であったことは土器や石器あるいは骨角器を比較すれば分かります。考古学者・小林達雄氏によれば、中国の石器とか骨角器は余りに貧弱で、日本の草創期に太刀打ちできないとのこと。

中国で土器が作られるのは、世界最古の縄文土器(1万1千年前)より数千年あとのことです。その頃、日本では西アジアより3千年も早く、煮炊用の土器で食事をしていました。(西アジアの土器はお供えもの用で、煮炊きはできません。中国の土器の出現は西アジアよりまだ遅れています。漆も日本起源であることが、最近の考古学研究で明らかとなっています。)

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(漆)

中国が発展してくるのは、西アジアでシュメールによる王権が成立して、その約1500年後に殷の王権が出来て、当時の文化の先進的地域である西アジアから鉄器や青銅器が伝わってからのことです。


参考までに・・・西アジアからの中国文化への影響の一例として、鉄器の伝播のルートは下記の地図を参照してください。。

【日本のたたら製鉄の源流を考える】
http://mutsu-nakanishi3.web.infoseek.co.jp/iron4/0802road.htm
尚、詳しくは・・・このホームページから【東アジアへの製鉄技術の伝播 年表調査 まとめ】をご覧下さい。


ちなみに、古代において・・・ヨーロッパに比べて日本を含む東南アジア地域の航海術や人的交流が、太平洋全域まで到達するほど発達していたのは、世界地図を見ればおのずと分かるはずです。

ベトナム・インドネシア・オーストラリア・ニュージーランドを結ぶ線から北の赤道付近には、大は台湾・フィリピン・ニューギニアから、小はミクロネシアからポリネシアまで大小無数の島々があり、仮にベトナム付近からめくらめっぽう海洋にカヌーで漕ぎ出しても、どこかの島々にたどりつくという安心感があるのです。

またそれらの島々の位置関係と地形が古代の航海技術の発達に役立ったことは否めません。 


日本と比べれば・・・古代の朝鮮半島などは、これと言った航海技術もなく、日本やこれらの地域からすれば、大陸にへばり付いただけの僻地に過ぎないのです。


posted by かたばみ at 17:12| Comment(1) | TrackBack(0) | 偉大なる先人達 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月20日

剣道と日本刀のルーツ

韓国では、以下のような記事がしばしば考古学的な検証もされず、ニュースとして掲載されます。

ソウル=聨合ニュース・・・「日本は自国が剣道の宗主国だと考えているが、朝鮮時代の刀を作る技術者らもたくさ ん日本に連れて行かれて、日本に影響を与えた」と日本が必ずしも先ではないと主張した。

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果たして本当にそうなのだろうか?結論から先にいえば、剣術のみならず日本刀は朝鮮半島や中国大陸とは別のルーツを持つ物だと言うのが考古学的見解です。

まず日本刀についてですが・・・
大和朝廷は、縄文人でもある東国の猛者・蝦夷を制圧するために随分と苦労しています。その蝦夷が手にしていた刀が「蕨手刀(わらびてとうです。

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日本刀の特徴は・・・切れ味を増すための反りにありますが、この反りの原型となった刀が「蕨手刀」なのです。 中国や朝鮮半島の刀とは違う流れでもたらされた物ですね。東日本を中心に各地で出土し、軟鋼と硬鋼の二重構造を持つ蕨手刀こそが日本刀のルーツなのです。

【日本人 教養 講座 日本刀 】・・・より抜粋
http://www.mokuzai-tonya.jp/05bunen/zuisou/2005/08nihontou20.html

【実際には中国〜朝鮮(百済)〜日本と伝わった青銅器や鉄のルートとは別に,人類史上初めて鉄の精錬技術を見つけ,エジプトやペルシャを破り,一大強国となったヒッタイ(トルコのアナトリア地方〜BC1300頃最盛期・首都ハッテイ)よりパミール・天山北路からゴビ砂漠・モンゴル高原を抜け渤海へ入り,沿海州より日本海を渡って,千島列島・北海道・東北地方と伝わった鉄の刀が有ります。これこそ原始「日本刀」,即ち日本刀の祖形であり,その名を「蕨手刀」と云います】


日本刀とは何かと端的に言えば・・・次の二点に尽きます。
@・・・柔らかい鋼を堅い鋼で包むという製法であること。
A・・・切れ味を増すための反りが付いていること。

考古学では、以下のようにその特徴を比較し、平安期にほぼ確立する日本刀の原型が蕨手刀だとしています。

@・・・柔らかい鋼を堅い鋼で包むという製法であること。
蕨手刀(考古学的考察)・・・「この刀剣は硬い鋼を軟らかい鋼で挟(はさ)み、作刀された」 中国大陸系の直刀にはない二重構造である。 後に鉄心が軟鋼となるのは、その後の作刀試行錯誤によるものだと思われる。

A・・・切れ味を増すための反りが付いていること。
蕨手刀(考古学的考察)・・・「柄と刀身にわずかな反りがみられる長谷堂遺跡の蕨手刀は、弯刀への移行期に位置づけることができます」


余談ですが・・・馬上で操作するために反りをつけたというのは、武術を知らない文献史家の後付けの屁理屈です(直刀でもスムーズに馬上で抜けます)。
昔、歴史学者(文献学者)に、刀は暗闇では納刀できないと言った人が居たらしいですが・・・その類ですね。


以下・・・参考文献と考古学史料

【刀剣美術保存協会】より抜粋
http://www.touken.or.jp/seisaku/koutei.html
「切れるためと曲がらないためには鋼は硬くなければならないし、逆に、折れないためには鋼は軟らかくなくてはなりません。この矛盾を解決したのが、炭素量が少なくて軟らかい心鉄を炭素量が高くて硬い皮鉄でくるむという方法です。これは日本刀製作の大きな特徴となっています」

【蕨手刀 日本刀誕生の背景はらむ 】
http://mytown.asahi.com/iwate/news.php?k_id=03000480902040001


次に日本剣術についてですが・・・

日本剣術の大きな特徴は・・・刀を両手で持つという事にあります。(そのことにより、人体の弱点が集まる中心線を防御すると同時に、力強い撃ち込みで相手を一刀両断にできるのです)

これに対して・・・中国の剣術は、片手で握るのが特徴で、時にはローマ人のように反対の手で盾を持ちいて敵の攻撃を防ぎます。朝鮮人の剣法も中国の流れからきた片手剣ですね。

日本の剣術の優れている点は・・・身体の中心に刀を据えることにより盾を持たなくても日本刀だけで防ぐことが可能な点にあります。これにより攻防一体の攻撃が同時に行えるのです。 


の時代には中国人でさえ日本の剣法を取り入れ「猫刀」と言う名前をつけて学んでいましたし、日本刀を相当数輸入しています。現在、韓国刀として伝えられている刀は、この当時に輸入された日本刀なのです。

剣道の防具や竹刀が作られたのは、江戸時代の日本であることは言うまでもありません。(厳密に言えば、戦国時代から)


韓国人が、それほど日本発祥の剣道が羨ましいのであれば、「新羅の花郎が修練した剣法として知られる本国剣法」とやらの、「実体のない文献に書かれているだけの剣法」の創作流儀で中国より伝わった武具を改良し、それを新しく広めればいいだけです。・・・何も日本人のように袴をはく必要もないでしょう。

韓国人が・・・それをしないのは、実際には本国剣法と言うものはなく、剣で闘うといってもただ闇雲に片手の力だけで蛮人のように振り回すだけで、日本剣法のような洗練された技法を持たないからでしょう。
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posted by かたばみ at 19:55| Comment(6) | TrackBack(0) | 偉大なる先人達 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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