
北洋艦隊提督・丁汝昌(ていじょしょう)
江戸末期から大東亜戦争にいたるまで、日本は常に国力や軍事力に差がある大国(英国・フランス・清・ロシア・アメリカ)と戦ってきた。
それらの戦争は、左翼史観が巷間に流布しているような、軍部の暴走で始まったわけでは決してない。尊皇攘夷以来、国民一人一人が当時の国際情勢を良く理解し、一貫して国家の安全と自衛のために富国強兵のもと、挙国一致で立ち上がったものだ。これらの国民世論は当時の新聞を見れば明らかなこと。そして、それは欧米列強が行ってきた植民地政策とは大いにかけ離れた戦争と言わざるをえない。
良く考えて欲しい。欧米が仕掛けた植民地戦争は、すべて国力と軍事力に圧倒的差がある小国に対してのみ行われてきた。しかし日本が獲得した朝鮮半島・満州・台湾は国際法に則り合法的に併合したものだ。しかも、それに関してどの国からも反対はまったくない。まして、日本のように植民地にインフラを整備し、その国民に教育を授けた欧米列強は皆無だ
端的に言えば、植民地を獲得するために国家が滅亡しては話にはならないと言う事だ。例えば、桟敷席にタダで居座りたいからと言って、屈強な相撲取りに無謀な喧嘩を挑む人はいないだろう。弱小国家日本の国民が苦渋のすえに決断し、国家の存亡をかけた自衛戦争だったと言うのが、それら戦争の本質なのだ。(東大を始めとする左翼系歴史家の歴史観は、共産主義に都合の良い歴史の摘み食いに過ぎず、丹念な史料研究から見えてくる歴史観とはまったく相容れない。)

松島
さて、本題にもどり「異能の勝者」の引用から、伊東祐亨と日本海軍の足跡を追うことにしたい。
日本は清国海軍力の脅威に対して、『イギリス・アームストロング社に巡洋艦「浪速」「高千穂」を発注する一方、「松島」「厳島」「橋立」を建造し、北洋艦隊の戦闘能力を凌駕することに成功した。「定遠」「鎮遠」の排水量には及ばなくても高性能と速射性にすぐれ、速射砲のほかに機関砲も装備した軍艦をそろえる、というのが、伊東祐亨を海上勤務組のトップとする海軍の狙いであった。』
『清国北洋艦隊との第一ラウンドは、9月15日午前11時半から行われた黄海海戦。「定遠」「鎮遠」を中心に左右に翼を張り出した形の凸横陣に構えた北洋艦隊に対し、連合艦隊は参謀島村速雄の提案した単縦陣の隊形から猛攻に移った。
その戦果は、4隻撃沈、喪失はなし。「定遠」「鎮遠」は満身創痍となって戦闘海域から離脱してゆき、祐亨は大艦主義よりも高速性と速射性を尊ぶ海軍の方が優秀であることを世界に証明してみせた。
そして、戦いの第二ラウンドは、山東半島北岸の軍港威海衛(いかいえい)の沖合いで明治28年1月30日に始まった(威海衛海戦)。「定遠」は、魚雷装備の水雷艇隊によって撃沈され、つづいて威海衛の砲台も完全に破壊された。
連合艦隊の本隊を出動させず、水雷艇隊のみを軍港に深夜潜入させて勝ちを制した海戦は、この戦いが世界海戦史上初である。薩英戦争以来、あまたの砲弾をかいくぐってきた祐亨とその幕僚たちの柔軟な発想力、前例のない戦いを成功させた海兵たちの練度の高さが察せられよう。』
[日清海戦の戦闘のデータ]
大日本帝國 大清帝国
[指揮官 ]
連合艦隊・伊東祐亨中将 北洋艦隊・丁汝昌
[戦力 ]
巡洋艦8 戦艦2
コルベット2 巡洋艦10
砲艦、他 水雷艇
[損害 ]
沈没艦なし,4隻大破 巡洋艦5隻沈没・大破
死傷者298名 死傷者850名
日本軍の武士道精神を世界が瞠目した事例は、枚挙にいとまがない。敗戦にいたるまで日本軍人は、どの国の軍人よりも国際法を遵守していたことは、日本のみならず各国の戦争資料を丹念に紐解けば、おのずと分かることだ。
NHKなどの戦争に関する討論会では、必ずといっていいほど中国共産党に洗脳された中国帰還者連絡会(中帰連)が出演し、いかに日本軍が中国大陸で残虐行為を働いたかという、中国共産党のプロパガンダを繰り広げているが、笑止と言わざるをえない。
しかし、左翼史観よりの報道機関と連係して、近代史に対する深い知識のない者への、このような中国共産党のデマやプロパガンダが、「中帰連」によって何度も繰り返されることで史実として定着していくことは、決して望ましいことではない。
中国帰還者連絡会に関するユーチューブ
http://jp.youtube.com/watch?v=RAdq0kAn24o
検証 旧日本軍の悪行(中帰連による偽り証言の検証)
この海戦でも、伊東祐亨は武士道精神を発揮し「北洋艦隊提督の丁汝昌が、敗戦の屈辱から毒杯をあおいで自殺したと聞くと、天皇の許しを得ずに分捕った運送船の一隻・康済号を敗兵たちに返し、丁汝昌の遺体を乗せて故郷へ送るよう命じた」という。しかも、余裕がなおあるのであれば、康済号には将士を乗せてもよい、とまで言った。
なお、『明治36年10月、海軍令部長としても海軍大臣山本権衛と非公式に会談し、対露海戦ともなれば東郷平八郎を二代目の連合艦隊司令官に指名する、と決めておいたのも祐亨であった』