2008年07月06日

欧米の心胆を寒からしめた薩摩と伊東祐亨 B

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 北洋艦隊提督・丁汝昌(ていじょしょう)

江戸末期から大東亜戦争にいたるまで、日本は常に国力や軍事力に差がある大国(英国・フランス・清・ロシア・アメリカ)と戦ってきた。

それらの戦争は、左翼史観が巷間に流布しているような、軍部の暴走で始まったわけでは決してない。尊皇攘夷以来、国民一人一人が当時の国際情勢を良く理解し、一貫して国家の安全と自衛のために富国強兵のもと、挙国一致で立ち上がったものだ。これらの国民世論は当時の新聞を見れば明らかなこと。そして、それは欧米列強が行ってきた植民地政策とは大いにかけ離れた戦争と言わざるをえない。


良く考えて欲しい。欧米が仕掛けた植民地戦争は、すべて国力と軍事力に圧倒的差がある小国に対してのみ行われてきた。しかし日本が獲得した朝鮮半島・満州・台湾は国際法に則り合法的に併合したものだ。しかも、それに関してどの国からも反対はまったくない。まして、日本のように植民地にインフラを整備し、その国民に教育を授けた欧米列強は皆無だ

端的に言えば、植民地を獲得するために国家が滅亡しては話にはならないと言う事だ。例えば、桟敷席にタダで居座りたいからと言って、屈強な相撲取りに無謀な喧嘩を挑む人はいないだろう。弱小国家日本の国民が苦渋のすえに決断し、国家の存亡をかけた自衛戦争だったと言うのが、それら戦争の本質なのだ。(東大を始めとする左翼系歴史家の歴史観は、共産主義に都合の良い歴史の摘み食いに過ぎず、丹念な史料研究から見えてくる歴史観とはまったく相容れない。)

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松島

さて、本題にもどり「異能の勝者」の引用から、伊東祐亨と日本海軍の足跡を追うことにしたい

日本は清国海軍力の脅威に対して、『イギリス・アームストロング社に巡洋艦「浪速」「高千穂」を発注する一方、「松島」「厳島」「橋立」を建造し、北洋艦隊の戦闘能力を凌駕することに成功した。「定遠」「鎮遠」の排水量には及ばなくても高性能と速射性にすぐれ、速射砲のほかに機関砲も装備した軍艦をそろえる、というのが、伊東祐亨を海上勤務組のトップとする海軍の狙いであった。』

『清国北洋艦隊との第一ラウンドは、9月15日午前11時半から行われた黄海海戦。「定遠」「鎮遠」を中心に左右に翼を張り出した形の凸横陣に構えた北洋艦隊に対し、連合艦隊は参謀島村速雄の提案した単縦陣の隊形から猛攻に移った。

その戦果は、4隻撃沈、喪失はなし。「定遠」「鎮遠」は満身創痍となって戦闘海域から離脱してゆき、祐亨は大艦主義よりも高速性と速射性を尊ぶ海軍の方が優秀であることを世界に証明してみせた。

そして、戦いの第二ラウンドは、山東半島北岸の軍港威海衛(いかいえい)の沖合いで明治28年1月30日に始まった(威海衛海戦)。「定遠」は、魚雷装備の水雷艇隊によって撃沈され、つづいて威海衛の砲台も完全に破壊された。

連合艦隊の本隊を出動させず、水雷艇隊のみを軍港に深夜潜入させて勝ちを制した海戦は、この戦いが世界海戦史上初である。薩英戦争以来、あまたの砲弾をかいくぐってきた祐亨とその幕僚たちの柔軟な発想力、前例のない戦いを成功させた海兵たちの練度の高さが察せられよう。』


[日清海戦の戦闘のデータ]

大日本帝國          大清帝国

[指揮官 ]
連合艦隊・伊東祐亨中将         北洋艦隊・丁汝昌

[戦力 ]
巡洋艦8               戦艦2
コルベット2               巡洋艦10
砲艦、他               水雷艇

[損害 ]
沈没艦なし,4隻大破             巡洋艦5隻沈没・大破
死傷者298名              死傷者850名


日本軍の武士道精神を世界が瞠目した事例は、枚挙にいとまがない。敗戦にいたるまで日本軍人は、どの国の軍人よりも国際法を遵守していたことは、日本のみならず各国の戦争資料を丹念に紐解けば、おのずと分かることだ。

NHKなどの戦争に関する討論会では、必ずといっていいほど中国共産党に洗脳された中国帰還者連絡会(中帰連)が出演し、いかに日本軍が中国大陸で残虐行為を働いたかという、中国共産党のプロパガンダを繰り広げているが、笑止と言わざるをえない。

しかし、左翼史観よりの報道機関と連係して、近代史に対する深い知識のない者への、このような中国共産党のデマやプロパガンダが、「中帰連」によって何度も繰り返されることで史実として定着していくことは、決して望ましいことではない。


中国帰還者連絡会に関するユーチューブ
http://jp.youtube.com/watch?v=RAdq0kAn24o

検証 旧日本軍の悪行(中帰連による偽り証言の検証)


この海戦でも、伊東祐亨は武士道精神を発揮し「北洋艦隊提督の丁汝昌が、敗戦の屈辱から毒杯をあおいで自殺したと聞くと、天皇の許しを得ずに分捕った運送船の一隻・康済号を敗兵たちに返し、丁汝昌の遺体を乗せて故郷へ送るよう命じた」という。しかも、余裕がなおあるのであれば、康済号には将士を乗せてもよい、とまで言った。


なお、『明治36年10月、海軍令部長としても海軍大臣山本権衛と非公式に会談し、対露海戦ともなれば東郷平八郎を二代目の連合艦隊司令官に指名する、と決めておいたのも祐亨であった』


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2008年07月04日

欧米の心胆を寒からしめた薩摩と伊東祐亨 A

日本海軍を育てた伊東祐亨の、薩英戦争後の戦歴は『明治維新人名事典』吉川弘文舘によれば「江戸薩摩藩焼き討ちの際、藩邸にあって血路を開いて品川沖に停泊していた薩船翔凰丸に乗船したが、幕艦回天丸砲撃を受けた。

このとき砲手として奮戦し兵庫に入港、兄・祐呂が副艦長をしていた軍艦春日丸に移乗した。明治元年正月、春日丸が幕艦開陽丸と阿波沖に戦ったときには、春日丸乗組員として戦闘に参加した」と言う。

海軍には薩摩藩の出身者が多く「薩摩の海軍、長の陸軍」と言われていたが、中村彰彦著「異能の勝者」によれば、伊東祐亨は、いつの間にか海軍を代表する人物となっていたようだ。以下、中村彰彦氏の著書を引用しつつ記述する。



明治10年代『当時の日本海軍はまだあまりにも貧弱であり、明治13年以降その旗艦とされた最新鋭の「扶桑」にしても排水量は三千七百十七トンしかなかった。対して仮想敵国である清国の北洋水師(北洋艦隊)には、明治17年にドイツ・フルカン社製の二大戦艦「定遠」と「鎮遠」が新規加入。

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清国北洋艦隊・「鎮遠」

これら両艦の排水量はそろって七千二百二十トンにも達しており、朝鮮の利権をめぐって清国と対立しつつあった日本は、いざ海戦となったところで海軍力における劣勢はまのがれがたい、という状況に置かれていたのだ。』


ちなみに、明治19年清の軍艦「定遠」と「鎮遠」が長崎に寄港した時、清国の水兵が市内で略奪・暴行を働いた長崎丸山事件を起こしている。当時清国は、東京湾から首都を砲撃し、九州ぐらいは植民地に出来ると考えていた。福沢諭吉の著述には、その砲撃を心配していた様子が書かれている。

中国人による日本人への侮蔑的態度と条約無視の姿勢は、通州事件など日本人への猟奇的虐殺を引きお越し、我慢に我慢を重ねた日本国民の怒りが頂点にたっして、条約を無視しし戦闘行為に走る中国(漢民族)から、共同租界地の日本国民および外国人を守るための自衛戦(上海事変)へと繋がっていく。


日本の歴史教科書は、意図的に上海事変にいたる経緯を記述せず、一方的に日本が中国を侵略したと述べているが、それは大きな間違いである。

もし仮に、日本が中国を侵略したと言うのであれば、アメリカもまた同様に日本を侵略したと教科書に記述するべきであろう。どうも、日本の教科書を編集する出版社や著者は、いまだにゴロツキ同然の旧共産主義国家には頭が上がらないらし。

東大を始めとして、日本の歴史学者は、左翼史観の持ち主が、その主流だというのが、日本の現実だ。学閥に反する歴史観を述べることは、その後の教授昇格や就職にふりとなるため出来にくい。いわば医師と医局との関係のようなものだろう。これは日本にとって不幸なことと言わざるをえない


ついでに述べると、日本の歴史教科書にはあたかも、欧米列強に蹂躙された弱者の清国を、明治維新を成し遂げた強者の日本が植民地獲得のために戦争を仕掛けたと思わせる記述もあるが、実際には国力に5倍以上の差はあった。日清戦争で日本が清国に勝つまでは、欧米列強といえども軽々に「眠る獅子」と恐れられた清国に、全面的な植民地戦争を挑む度胸はなかった。

軍事力のデータだけでも、その差は下記のとおり。

清国
兵力       962,163人
大砲・機関砲     1、733門
軍艦 82隻    水雷艇 25隻
総トン数     8万5000トン

日本
兵力       240,616人
野砲・山砲など      294門
軍艦 28隻    水雷艇 24隻
総トン数     5万9106トン


このような、曲がりなりにも強国(清国)に日本が植民地戦争を仕掛けたと論じるエセ歴史学者は、太平洋戦争も日本が仕掛けたアメリカへの植民地戦争だと言うべきだろう。彼らのダブルスタンダードには辟易とさせられる。

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2008年07月01日

欧米の心胆を寒からしめた薩摩と伊東祐亨 その@

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伊東祐亨

日本海軍の基礎を築いた伊東祐亨の元体験は、生麦事件に端を発する薩英戦争である。このとき彼は、沿岸砲台の一つで太鼓役を任じられ、参戦している。

この薩英戦争、中・高の歴史教科書では薩摩側の敗北だったと記述してある。しかし実際には世界の軍事専門家が最も重視する死傷者の数では、後に述べるようにイギリスの方が多い。それ以後、欧米各国に日本侮りがたしとの認識が広がった。日本のもつ潜在的な軍事力に、心胆寒からしまった欧米列強は、もはや軽々に殖民地戦争をしかけることは出来なくなったのである。

薩英戦争は、イギリス側の暴挙からその戦端が開かれた。以下、下記の二冊の書籍の引用を交えながら、伊東祐亨の経歴にそって日本海軍の足跡を追ってみたい。




英国側は、生麦事件の後処理の交渉中に、湾内に停泊していた賠償金より高価な薩摩藩の汽船3隻を拿捕して交渉の切り札とする。薩摩側はこの暴挙を敵対行為とみなし、ついに砲撃を決意する。戦争を仕掛けたのは薩摩ではなく、史実ではイギリス側からだったのである。

「薩摩藩首脳の砲撃開始の命令一下、各砲台が次々と火を吹いた。まず、東洋艦隊中、3番目の備砲、17門を誇るペルセウスに着弾、ペルセウスは、錨を切り捨てて逃げ出した。直後、拿捕した三隻を英艦隊は沈め、一旦、薩摩の砲撃の射程外で態勢を整え、単縦陣で湾の奥へと進出、アウトレンジからの砲撃をするとの予測を裏切り、十分に接近してからの砲撃で、薩摩側の砲座を一つ一つ破壊していった。嵐で海上が荒れていたためもあり、英艦は揺れて完全な性能は発揮できなかったが、それでも薩摩の旧砲は時間とともに沈黙していった。

 しかし、薩摩兵の志気は高く、英艦の全てに命中弾を与え、特に旗艦のユリアラスは、集中砲火を浴び、艦長ジョスリン、副艦長ウィルモットらが戦死した。



「夕刻には薩摩の砲台は全て沈黙し、英国側の勝利は確定した。日没後、英国艦隊は付近にあった船に火をつけ、鹿児島城周辺の民家に砲撃を加えるなどの乱暴を働き、武家屋敷と共に多くの民家が消失した。これらは、非戦闘地域への無差別攻撃であり、近・現代戦であれば明らかに戦時国際際法に違反した行為であることを付記しておく。

翌日、英艦隊は、まだ残っていた薩摩側の砲台を攻撃し、抵抗力を排除して停泊。応急処置をして錦江湾より撤退した。
 
薩摩側は、砲台と船舶のほとんどを失ったが、人的被害は5名の戦死と、13名の負傷。
英国側は、13名の戦死と負傷50名、後に7名が死亡してしまうので、戦死者は20名となる。そしてなにより、虎の子の艦隊が大きく傷つき、これを修理するにはインドまで回航せねばならなかった。

 これを見れば、薩英戦争の結果は、人的被害では英国の敗北であり、英国東洋艦隊をかなり長い間無力化した薩摩藩のその戦いは、悪くても引き分けといったものであった


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2007年11月04日

世界的な江戸の精密機械技術

当時の技術を集めた精密機械といえば、時計に代表されることだろう。

ヨーロッパから時計が最初にもたらされたのは、文献によると天文20年(1551年)フランシスコ・ザビエルが、大内義隆に献上したのが最初とされる。また現存する最古のものはメキシコから献上されたスペイン王フェリッペ2世の時計師の銘のある枕時計で、家康に贈られている。

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(田中久重作「万年時計」)

当時アジアに来たヨーロッパ大使は、精密機械の粋を集めた時計を日本だけでなく、中国や朝鮮にも贈ってヨーロッパの技術力を誇示したようだ。

面白いのは、その時計が朝鮮からも家康に送られたが、この時計は、壊れていて(故障の経緯は不明)、安芸出身の津田助左衛門が修理し、同時に同じものをもう一つ造ったという記述があることだ。

つまり、当時の日本でもヨーロッパの技術の粋を集めて造られた時計ぐらいは、いとも簡単に製造できる技術力と人材があったということに他ならない。

しかし日本では、ヨーロッパ式の定時法による時計は使われようとしなかった。その理由は、日本が季節の変化によって昼夜の時間の長さが変わる「不定時法」を採用していて、それが日本の農業に適していたことによる。

そこで登場したのが、世界でも類をみない巧妙な時計「不定時時計(和時計)」である。それはヨーロッパの時計より複雑な機構を備えていた。

以下、和時計の技術が日本の精密工業にはたした役割を、山本七平氏の著書から引用して見たい。

『当時の時計は「自鳴鐘」といわれたように、時打時計であったから、日常に使えるには「明け六つ」に六つ鐘打ち、「繰れ六つ」に同じように六つを打ってくれないとこまる。というのは時計の針の速度を朝夕で調整し、同時に季節によって調整しなければならない。

だがこの二重の調整は誰が考えても甚だ複雑なことである。この煩雑なことを自動的に行う方法がないものか、と考えたことが、おそらく世界でも珍しい「不定時法時計」すなわち「和時計」の始まりである。


この世界で唯一の、最高の技術水準に達した「不定時法時計」も、やがって押し寄せてくる欧米の工業化の波に飲まれてしまう。明治政府は太陽暦と定時法を採用し、同時にすでに「工場生産」の時代に入っているアメリカのボンボン時計が、無関税に等しい状態で日本に入ってきたからだ。

さらに八十石ぐらいの禄をもらっていた時計師たちは、禄を失って失業した。職業的な技術にたよっていた美術工芸的な和時計は、安価なボンボン時計に比べて、製造コスト的にも存続してゆけるはずがない。


しかし、打ちのめされた彼等が輸入されたボンボン時計を分解した時、その構造が以外に単純であることを知った。たしかにボンボン時計は、和時計よりも進歩したものであったろうが、定時法時計の原理は不定時法時計よりはるかに単純である。

一度は壊滅した和時計もたちまち洋式時計として再生し、失業した藩の時計師たちは会社を創設してボンボン時計を造り出した。工場生産というシステムは劣っていたが、二百数十年蓄積した技術は強い。

日清戦争ごろアメリカ輸入のボンボン時計は14円〜15円だったが、日本製は4〜5円、約1/3の価格である。たちまち日本製はアメリカ製を国内から駆逐し、明治35年ごろには中国・インド・東南アジアからアメリカ製を駆逐してしまった。

明治維新後、幕府暦局御用時計師・大野規周は、大阪造幣局技師として精密機械産業の発展に努力するとともに、大阪に時計製作所を設立し、多くの技術者を養成した。もちろんこのような努力をしたのは彼だけではない。ここで蓄積された伝統的技術と生産方式が結合して、日本の精密工業の基礎ができ、やがてはそれが世界を制覇するのである。

和時計の遺産はそれだけではない。徳川時代の時計師たちは時計だけでなく様々なものを造っている。「消防ポンプ」・今見ても見事な「葉タバコ自動きざみ機」・ロボットの原型ともいえる「カラクリ人形」などなど。

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『こう言う時計師が蒸気機関を見ればすぐにその構造がわかる。ペリー来航で蒸気船を知った日本人が、すぐ同じものを造っても不思議ではない。

寛政八年細川半蔵頼直という人が「機巧図案」という3冊の本を出版しているが、その2冊は自動人形、1冊は時計の製作法である。日本がロボット大国になったのは奇跡でもなんでもない。大体、神ならぬ人間の世界に奇跡などあるわけがない。こういう見方はすべて歴史への無知にゆらいする。

このように消防ポンプのピストンも、からくりの複雑な伝導装置もみな時計師が造ったから、明治になって外国の図書でさまざまな機械の図をみると、すぐにそれを造った時計師がいてもすこしも不思議ではない。

彼らは欧米の多くの機械の図を見たとき、すぐにその構造を理解し、同時に同じものを自前の技術で造る能力をもっていたのである。この蓄積がなければ、今日の日本はなかったであろう。



日本の技術力の高さは、なにも江戸時代に限ったことではない。有史いらい日本は物造りにかけては、世界の最先端をつねに走っていた。

時計技術にしても、寡聞にして私は近世の中国や朝鮮で、ヨーロッパと比肩できる自前の時計が造られたという話を知らない。 近代化で中国や朝鮮が日本に大きく遅れをとったのは、決して偶然でないのだ。

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2007年11月02日

5公5民は農村搾取だったという嘘

今日の歴史教科書は左翼史観に基づいて書かれた物が多い。しかしその歴史観がいかに、観念的で薄っぺらなものかという面白い事例を「日本人とはなにか」山本七平氏の著書から引用してみたい。

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かつてある左翼的進歩的教授が、徳川時代の農民は5公5民でどれだけ苦しめられたかを講義した。

だがそのとき一人のアメリカ人学生が質問した。「では日本は、その米をどこへ輸出していたのか」
教授には質問の意味が分からなかったらしく、しばらくぽかんとしていたが、やがて狼狽の色を浮かべて絶句し、立ち往生してしまった。

この”白紙”のアメリカ人の質問は、小学生でもわかるきわめて単純な計算から成り立っていた。徳川時代を通して農民の人口は全人口の84%前後、後期には推定人口3千万のうち、武士7%、工商6%、その他3%とするのが通説である。

すると農民以外の消費者は16%しかない。農民から収穫の半分を取り上げるということは、穀物、主として米の総生産の42%ぐらいを取り上げることになる。

だがこれを、農民以外の16%の人間がことごとく消費することは不可能で、すくなく見積もっても20%ぐらいの余剰農産物を生ずるはず、では一体それをどこへ輸出していたのか、ということである。

鎖国下の米の大量輸出などありえない。とするとマクロで見ると計算があわない。一体どこへ消えたのか。答えられないから教授は立ち往生となる。

本当に5公5民なら、わずか7%といわれる武士階級の困窮などありえないし、「借地」などあるはずもないからである

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実祭には、「5公5民」は単なる名目に過ぎない。実情も検証せず、形式的な内容が記述された書物を、イデオロギーに染まった目で読むから、素人に指摘されてうろたえるという恥を掻く。教科書に事実誤認の記述を平然とする、左派の歴史家が多いのは、何ともなげかわしい。

「5公5民」の徴税法の基礎となる「検地」についての事情は神崎彰利氏の著書「検地」に詳しく記述されているので興味のある方は読んで見られてはどうでしょうか。
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2007年10月24日

明の宮廷を震え上がらせた男

何故かNHKの大河ドラマには、お呼びがかからない人物がいる。その男の名は島津義弘。

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(島津義弘)

関が原の戦いで西軍につき、小早川秀秋の裏切りで西軍の諸将が雪崩を打って潰走するなか、「味方の働きはこれまでなり、汝等かくの如き負け戦の時は、死なんと思へばきっとなんとかなるものだ。味方の敗軍するほうへ退がれば、敗兵足まといに成りて自由ならず、幾度も向かう敵を打ち破りて引くべし」と言い、わずか1400名の軍勢で東軍数万に対して敵中突破をはかり、「捨て屈(かま)り」といわれる戦法で、その追撃を立ち切ったつわものだ。

余談だが、この「捨て屈り」は、かの有名なアパッチの酋長「ジェロニモ」も、騎兵隊に追撃されたときにしばしば行っている。ともに人望があり、部下が彼らに対して、畏敬の念を強く抱いていたからこそできる戦法でもある。


秀吉の死をもって終焉をむかえた朝鮮出兵(慶長の役)で、引き上げる日本軍のしんがりを務めたのも島津義弘率いる島津軍だった。

撤退する軍のしんがりほど、困難なことはない。猛追する敵軍の攻撃を一身に受け、味方を安全に撤退させなければならないからだ。


以下、中村彰彦著「異能の勝者」から引用。

『朝鮮と明の連合軍の反撃が日増しに激しさを加えていた慶長三年九月二十八日、明の将軍・董一元は、公称二十万の大群を引きいて北から泗川倭城に接近、泗川倭城の守将島津義弘は、これを見るや周辺の永春や昆陽の出城を放棄したため、これらの出城は明軍に焼き尽くされるところとなった。

しかも、泗川倭城に籠もった義弘の兵力は、わずか一万。たまりかねたその兵のひとりが出撃できない無念を訴えると、義弘は悠然と答えた。

「永春や昆陽の出城を奪ったならば、これを焼くのではなく足場にしてこの城に三度も四度も試し攻めを仕掛け、こちらの陣立てを見るのが真の戦術だ。というのに董一元の軍は永春・昆陽を焼いて大軍を野ざらしにする浅智薄識のやから。まずは三日以内に攻めてこようから、その時存分に戦えばよいのだ」・・・征韓録より意訳。

その通りに明軍は、十月一日早朝に泗川倭城の外構えの柵を破って空壕に侵入・さらに石垣をよじ登って、城門を突破しようとした。

ところがその時、明軍の木砲が破裂してすべての火薬を誘爆させ、人馬ともに大混乱に陥ってしまう。これを戦機と見た猛将島津義弘は、中央から突貫。せがれ忠恒は右翼から、武将種子島久時らは左翼から弓矢と鉄砲による猛攻を開始したところ、明軍は夕方までに三万八千七百余の戦死者を出して潰走してしまった。

この惨敗を報じられた明の宮廷は、「石曼子(しまづ)は、強悍にして、勁敵(強い敵)」と震え上がったといわれている。

島津義弘は、また戦国武将には珍しい読書人でもあり、かれは朝鮮滞在中も「古今和歌集」「千載和歌集」「論語」などを陣中で紐解く教養人でもあった。』

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(東京・渋谷にあるNHK放送センター)

NHKは、小泉・元首相が靖国神社を参拝したおり、中国から国内での放送を禁じられ、安倍・元首相が中国を訪問した後に、その放映が許された。

NHKは、いまだにその事実を放送料を払っている日本国民には知らせることもなく隠したままだ。中国に滞在している邦人は、日本からのニュースに接することも出来ず困惑したことだろう。


尊大に「言論の自由」を叫ぶのは精々日本国内だけ、中国には言論を統制されても抗議するそぶりさえ見せない。それならば、自らを中立的な報道機関と呼ぶのは止めたがほうが良い。中・韓の宣伝(プロパガンダ)会社に受信料を支払うのは、辟易とさせられる。

NHKは、大河ドラマに明軍を震え上がらせた島津義弘を登場させるのは、中国の逆鱗にふれるとでも思っているのだろうか。 

いまからでも遅くはない、島津義弘の爪の垢でも煎じて飲むべきでだろう。





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2007年10月19日

数学先進国・近世の日本

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(関孝和)

関孝和に代表される近世日本人の数学の能力が、独自で微積分・行列式・方程式の判別式・ニュートン法・不定方程式の解法・円錐曲線などの高等数学を考案し、西洋を凌ぐものであったことは、よく知られている。 しかし、「和算」が明治維新以降の近代化を支えていたことに、思いをはせる人は案外少ない。

日本の独自の数学「和算」は支那を起源としているが、支那の数学がその後発展もせず停滞していたのに対して、日本では世界のトップレベルまで磨き上げられていく。(日本に入ってくる文物を吸収し、より以上に昇華させていくのは、古来より日本人の特質なのだろう)


以下上智大学・渡辺昇一氏の著書から引用して、先人たちの功績を描いて見たい。

日本人はまったくの自力で微積分の概念に到達していた。また、円周率の計算も無限数列の導入によって、計算式を見出していたのである。

さて関孝和や門下生の発見とまつたく同時期に、ドイツではライプニッツが微分の概念に到達している。また、少し遅れて、イギリスではニュートンが微分の概念に到達している。言うまでもなく、日本の関孝和と門下生、ドイツのライプニッツ、イギリスのニュートン、この三者ともに相互関係はなく、それぞれ独自に微分の概念に到達しているのである。

日本では、ただ残念なことに、政治的に禁じられていたために物理学や化学の実験に、微積分などの数学的発見が応用されることはなかった。

当時の最先端の工学といえば、造船技術が上げられるが、これもまた幕府が諸藩の軍事増強、とくに海軍(水軍)を持つことを禁止したため、巨大な外洋船の建造など考えられず、この方面での高等数学の応用は見られなかったのである。

これに対して、ヨーロッパでは、自然科学の進歩の時代は、そのまま大航海時代と重なっていたために、研究と実践が相互に刺激しあって、共に発展していった。

しかし繰り返して強調しておきたいが、日本人の頭脳は、決して”停滞”していたわけではなかった。事実、関孝和以降も和算の研究は発展しつづけ、しかも研究者の数は増えていたのであった。

幕末や明治には、欧米から多数の「お雇い教師」がやってきて、西欧流の自然科学や工学を教え、日本の近代化に貢献したのは有名な事実だが、ただ一つの例外は数学であった。

日本に流れてくる程度の数学教師は、日本人の目から見れば、みんな幼稚に見えたという記録が残っているが、これは当時の日本人の素直な実感だったろうと思われる



江戸時代、和算は高名な数学者が高等数学の難問をだし、それを解くことが庶民に流行っていた。いまのクイズのような遊び感覚で、数学が日本人に広く浸透していた事実も見逃してはならない。

日本人の多くが基礎教養としてもっていた「和算」の知識が、西洋の知識をいち早く吸収し、急速な近代化をもたらした根源でもある。

これは、高等数学の発達を見なかった中国・朝鮮などアジア諸国では絶対になしえなかったで事でもあろう。


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2007年10月18日

近世日欧比較 2

「近世の日本が、当時の世界でも群をぬいて優れていた」と言う、ヨーロッパ人の記述は逐一書くのが面倒なぐらい多い。

それは、道路などのインフラについても同じことだった。帝京大学教授・高山正之氏のコラム「日本の道路・没落史」から以下引用してみたい。

edo04.jpg
(江戸東京博物館)
http://homepage1.nifty.com/eagle_dan/photo117.htm

『10代将軍徳川家治のころ、日本にやってきたスエーデンの植物学者、カール・トゥンベリはリンネの弟子で、オランダの東インド会社に日本の植物研究を依頼されて長崎の出島にきた。そして山陽道から東海道を旅するが、その「街道の水準がヨーロッパのどこより優れていることに衝撃を受けた」(R・レイメント著、地球科学の巨人達)

どう優れているかというと、道幅が十分広く、「人々は道の片側を歩き、欧州のまとまりのない羊の群れのような歩き方ではなかった」。 つまり左側通行という規則がすでにあって、人々はそのルールに従って整然と歩いていたという。

これは特筆すべきことで、ヨーロッパ人は言うに及ばず、仮にも礼を重んじるとされる中国人・朝鮮人などの社会でさえ、このような現代に通ずる交通ルールのマナーは見て取れない。中国人などは、いまでも列車に乗るのに列すら作れない。酷いのになると窓から乗り込む

『そして掃除も行き届き、「道路沿いの生垣はすがすがしく、旅の退屈を紛らわせてくれた」

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(ハインリッヒ・シュリーマン)

幕末にはトロイを発掘する前のハインリッヒ・シュリーマンがぶらり横浜にきて、トゥンベリが書き漏らした東海道の幅員について「十一m幅で」「念入りに管理されていた」と「中国と日本の現状」の中で書いている。

そして訪れた「江戸の街のすべての道はパリの大通りのように砂利で舗装されている。最も狭い道でも幅七メートルはあり、商業地域の平均的な道幅は十四メートルぐらい。大名たちの屋敷町の道幅は二十から四十メートルもある」

ここで比較に出されたパリの道は、そのわすか三十年前、ナポレオン三世の時代に大改造されたばかりで、それまでは「建物のほとんどは立小便や汚水で根腐れを起こして傾き、道路はいつもぬかるんで」(アラン・コルパン、においの歴史)、ルイ九世だったかはセーヌ川のシテ島の辺りの道で落馬して窒息死している。

その新生パリ並みの美しく整備された道が東洋(日本)にもっと古くからあったことにシュリーマンは驚嘆した、というわけだ


また松原久子氏の記述には『日本の道路には、汚物、ごみ、くずの類は一切落ちていなかった。このことは当時日本を旅した数少ないヨーロッパ人の旅行記にも、驚嘆の念をもって記されている。人間と動物の排泄物やゴミが道路や裏庭に積まれたヨーロッパの町々に比べて、あまりに清潔なので不思議に思ったのだ。』 『それは町の道路ばかりではなく、街道でも同様だった。街道には決った間隔で厠(トイレ)が設置されていて、旅人たちが利用した。糞尿は近くの村の農民が取りに来た。厠は農民たちによっていつも清潔になっていた』という。

ヨーロッパで、公衆トイレが設置されたのは、それよりはるか後のことだ。 そのヨーロッパ人が、当時の中国や朝鮮の首都でさえ街道に人糞があふれ汚かったと言うのだから、日本以外はおして知るべしである。

とくに朝鮮の首都は、世界でももつとも汚いとの、そこを訪れたヨーロッパ人の旅行記がある。 とてもじゃないが、当時の世界の首都は、清潔好きの日本人には住めたものではなかっただろう。


これを秩序と安全・公衆道徳(マナー)の行き届いた社会と言わずしてなんと言うのだろうか。これが自虐史観の描く、庶民人が搾取され虐げられていた暗黒の日本社会といえるのだろうか。 もっとも結論ありきの彼らには、事実などどうでもよいのだろが・・・
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2007年10月17日

近世日欧比較

日本の農民による「一揆」と呼ばれるものが、実は血なまぐさい暴動ではなく、大半はただの交渉に過ぎないと書いた。それでは、その一揆がどれだけあったのか検証してみたい。

共産主義の思想が根幹となっている自虐史観に基づいた歴史家たちは、「毎年農民による暴動があった。鎖国時代には全部で1500回ぐあらいの農民一揆があった」と述べている。

仮に彼らの言うように、江戸時代約260年間のあいだに、総計1500回の一揆があったとしても、年間約6件と言うことになる。当時の日本の村が約6万3千村だから、村当たり、たった6/63000の発生件数でしかない。しかもその中身は前述のように大半が、平和的な協議なのである。

さらに松原久子氏の著書によれば、『当時の日本には、およそ六万三千の村があった。ということは毎年年貢米による納税額の決定が六万三千件あることになる。二百年以上という年月のなかで総計千五百回の争い。もしくは暴動があったとすれば、争いの起こった比率は一万件に一回ということである』と述べられている。


現在の中国では、年間約8万件の暴動が発生している。日本と中国の人口比を考えて、単純に1/10だとしても年間8000件の暴動が起こっていることになる。 

年間約8000件も暴動が発生する現代の中国、かたや年6回の鎖国日本。為政者に対する不満の大きさは一目瞭然だ。

さも「江戸時代は一揆の風が吹き荒れていた」というような支配階級にたいする血なまぐさい闘争があったとする歴史教科書には、一体どんなフィルターが掛けられているのか。

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(ウラジーミル・レーニン)

いまだにマルクス・レーニンの亡霊に操られる左派知識人や日教組によって歪められた日本人の歴史観がいかに、いびつな物であるか、先人の英知によって築かれてきた日本の歴史が世界にも類を見ない優れたものであったのか、我々は教科書ではなく、多くの書物から、少なくても近代史ぐらいは、すれっからしの近隣諸国の情報操作(プロパガンダ)を見抜くぐらいの知識をえるべきではないか。


さて本題。『入浴は日本の農民にとっては、フランス人貴族の晩餐の際の1杯のワインのように、一般的であった」 それは、病気を予防する意味も込められていた。

かたやヨーロッパではどうだったのか。コラム「欧米人進化論」のなかで帝京大学・高山正之氏はこう書いている。

彼らはもともと体を洗うと精気がうせると信じていたうえ、キリスト教の教義も一歩進めて入浴は健康を損なうと考えていた。だから王侯貴族から庶民にいたるまで、ふやけた垢がたまり過ぎたころ、しょうがなしに湯浴みする程度だった。英国の建築家、ローレンス・ライトの「風呂トイレ賛歌」によるとジョン王は3週間に一回、エリザベス女王も月に一度しか入浴しなかったという。

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(ルイ15世)

ルイ15世は宮殿にあった大理石風呂を、使わないのももったいないからとポンパドール婦人にプレゼントしたが、彼女も風呂嫌いで、結局庭の噴水に化け、それが今に残されている。

20世紀に入っても、欧米人は風呂に入る習慣が獲得できないでいた。英国のウインザー公はパリ郊外ブローニュの森の館でシンプソン婦人と暮らすが、「風呂には一度も入らなかった」と産経新聞「20世紀特派員」で野津修敏記者が報告している』

さらに、風呂に入らない人種と「1日二度も風呂に入る日本人(J・ロドリゲス)」との間に、笑い話のような誤解も生じた。

規則に違反したオランダ人捕虜に対して、「日本軍は懲罰のため数日間の入浴を禁止した。彼らはそれが耐え難い懲らしめになると信じていたようだ」(西欧の植民地喪失と日本人 R・カウスブルグ)

トム・クルーズ主演の「ラストサムライ」では、セリフのなかに「野蛮人との生活では、風呂にも入れないから・・・」と言った意味の言葉が語られている。 


自分たちが常に文明の先端を走っていたという、傲慢な思い違いから来た事実誤認なんだろうが、 実際には、ほんの数世紀までヨーロッパよりアジア諸国の方が文明が進んでいた。いまだにアメリカといえどもこの程度の認識なのである。



風呂に入らないのは中国・朝鮮も似たようなもの。日本人は庶民さえも、いにしえより文化的生活を送ってきたのである。
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2007年10月15日

日本の農民とヨーロッパの農民比較 3

日本では、ヨーロッパと違って、農民は自分たちの村の総合的な案件について、原則として自主管理をするのがルールになっていた。どの村にも戸籍係があった。それは、ヨーロッパの農村の戸籍係が教会の監督下にあったのとは違って、村人や寺によって運営されていた。』

稲作には綿密な灌漑システムが必要である。そのため『農民は堤防や、測量技術、治水工事の技術などにも精通していなければならなかった』

『こう言った多方面にわたる課題が農民にはあったので、日本の農民の多くは、読み書きソロバンができた。ヨーロッパの農民が読み書きができるようになる、はるか以前のことである』

日本では旅も盛んで、総人口の1/3の人々が、「お伊勢まいり」など、どこかに旅行していた年もあるという記録がある。しかもただの旅行だけではない、同時に他の土地での品種改良などの農業技術を学ぶ旅でもあり、農民の学習意欲や知的好奇心はヨーロッパの農民とは比較にならないぐらいの差があった。

そうした、『事実上、何の制約もなく全国を移動できる自由は、日本全国を均一な国にすることに大いに貢献した。農業の発展につながる情報は、旅をした農民たちによって、短期間のうちに各地に広がり、試験的に実践された。

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どの農具がどういう土質に適しているとか、害虫駆除の一番よい方法とか、肥料の撒き方とか、綿や茶、桑の木はどういう土地が適しているとか、あるいは当時二百四十種以上の米にはそれぞれどういう特徴があるかなど、「農業全書」や「養蚕秘録」のように詳しく記された古い書物が残っていて、今でも読むことができる』

当時のヨーロッパで、日本のように二百四十種以上の品種改良をされた穀物はない。それだけ日本の農民の知的水準が高く、また自由な学問や研究を許した為政者があったからに他ならない。

当時、日本の穀物の単位面積当たりの収穫量や農耕技術は間違いなく、世界のトップレベルであった。こうした記述が教科書に載ることはない。それが何故なのか、子供の未来を真剣に考えるのであれば、疑問を抱く必要があるのではないのか。
 


引用文献・・・「驕れる白人と戦うための日本近代史」松原久子著


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2007年10月14日

日本の農民とヨーロッパの農民比較 2

現在のマルクス・レーニン史観にもとづく教科書では、人類は階級闘争を通して、最終的に共産主義社会に到達するという独自の歴史観から、近世において農民は、武士階級から過酷な納税を課せられ、奴隷的な存在でなければならないとの前提にもとづいた、色メガネ的記述がなされている。

しかし歴史はそう言った「型にはまった進歩」をするわけではない。その国々で国家の成り立ちや在り方、あるいは制度には、それぞれに固有の発展の仕方があるからだ。

引き続き、松原久子氏の著書から文章を引用して、「自虐史観的教科書の描く薄っぺらな農民像」と「史料を丹念に掘り下げた研究結果による農民像」との違いを見てみたい。



『日本全国が被害を被った大災害の年を除けば、農民たちは、大体うまくいっていたといえる。年貢を基にした租税制度と全国における米の配分も至極円滑に機能していた。

それなのに「毎年農民による暴動があった。鎖国時代には全部で千五百回ぐらいの農民一揆があった」などという歴史家は多い。ところが、この「農民一揆」と数えられている事件を詳細に調べて見ると、驚くべき結果が出てくる。

ある村の代表と大名の代理人が年貢米の納入量について話しあったが、、合意に達することができなかった。そこで近郷のいくつかの村の代表たちが一緒に大名屋敷へ参上し、年貢の軽減を願い出るために協力しあった、というだけでそれは「農民一揆」に数えられているのである。そのような陳情が暴力沙汰になったのは極々稀なケースであったというのは全く斟酌されていない。

事実、「農民一揆」といわれている出来事の大半は、天候不順のために収穫量が落ち込んだので、農民たちが配慮を願い出るといったような正当な申し出をしたとか、町へ静かに出かけていって、自分たちの事情を説明してから、また静かに立ち去っただけに過ぎないことが証明されている。

日本では同時代のヨーロッパ諸国に比べて、公平と自治が高度に機能していた。農民たちは現存の統治システムに対して反抗しなけらばならないと言う感情に駆られることが少なかったのである。


他方、ヨーロッパはどうだったかと言うと。 『彼らは日本とは、比較にならないほど、お上の横暴のなすがままになっていた。納税額は一方的にお上から要求され、協議に加えてもらえるなどと想像すらできなかった。だからこそマルチン・ルターがキリスト者の自由を告知した時、彼らの多くはルターに希望を託したのである。農民たちはこの改革者を、夫役と奴隷的状態のくび木からの解放者と見たのだ』

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(マルチン・ルター)

同じ宗教改革者トーマス・ミュンツァーが書いているように「休まずどんどんやれ、続けろ、火が燃えているではないか。刀を血で濡らせ。そこにいるあいつらがお前達を支配しているかぎり、だれもお前たちに神について語ることはできない。なぜならそこにいる奴等がお前たちを支配しているからだ・・・」と言った、ルター時代の農民たちの血なまぐさい暴動は、残酷なやり方で無慈悲に打倒された。

しかし、『農民達が蜂起したことに対して、もし支配者がヨーロッパのようにただ復讐に燃えて大量処刑を行ったとしたら、そのような行為は日本では無慈悲の極致であるとし避難されるばかりでなく、政治的な愚行とみなされたであろう』と言う。

名前を失念したが、欧米の歴史学者の一人は、もし過去の時代に行けるとしたら、何になりたいかと問われ、「貴族ならイギリス、農民なら江戸時代の日本」と答えている。

それほど、日本の支配階級は徳政をもって日本を統治し、また農民は世界でもまれなぐらい自立した存在だったのだ。 民衆は幾ばくかの制約はあるものの、基本的には自由を謳歌していたというのが近世の日本の姿なのである。






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2007年10月13日

日本の農民とヨーロッパの農民比較 1

「素朴な農民」と言う言葉から、ヨーロッパの人々が連想するのは、「農奴」であるという。

「驕れる白人と戦うための日本近代史」著書・松原久子氏から文章を引用し、日本の農民と欧州の農民との違いを浮き彫りにしてみたい。

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それは、貴族の主人や大地主から搾取され、殴打され、もっと収穫を上げろといつも鞭で叩かれる農奴である。貧しく、反抗的で常に暴動を企んでいる。顔には深いシワが刻まれた人たちを彼らは思い浮かべる。藁の上に寝て、涙を流しながらパンを食べ、やっと1年に一度新しいズボンを、5年に一度一足の靴を手に入れることのできる人たちを。生涯一度も風呂に入らず、自立することなどを考えたこともなかったから、読むことも書くこともできない人たちのことを頭に思い描くのである。

これは、産業革命以前のヨーロッパの農民に関する史料を調べたときに、必ずであう農民の姿、生活である。ヨーロッパにおける農民の決定的な特徴は、人々の食料の生産をひとえに担っていたにもかかわらず、領主の横暴の最大の犠牲者だったということである』


これは、なにもヨーロッパの農民だけではなく、世界の中心を自負する中国・その文化をとことん模倣した朝鮮においても同じことである。

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しかし日本の農民は、庄屋や地主の横暴の犠牲になる心配はほとんどなかった。それどころか、彼らは自立していたのである。これはヨーロッパの農民には生涯体験できなかったことである。

大切な食料の生産者である農民には、日本では確固たる地位があたえられていた。当時の日本の社会は、士農工商という四つの階級に分かれていたが、農民は武士に次いで第二番目の地位にあったのである。

日本のいたるところに自立した村落共同体が作られた。どの村にも会議である「寄り合い」があった。寄り合いでは、メンバーの中から代表者一人と、二人の委員が選ばれた。彼らの役目は対外的に村を代表することだった。

特に年貢、つまり納税の問題について、村の人々の意見を代弁するのが彼らの任務であった。税の額は、米で計算され、脱穀し俵に詰めた米が納められた。これは村ごとに毎年異なり、作柄に応じ、収穫を基準にして定めたので、同じ領内の隣り合わせた村でもことなり、年々豊作凶作により加減された』

日本では、最大限の公正を期した税体系の整備が試みられた。土地の地味、日光の当たり具合、灌漑の効率などを考慮して全ての水田が測量された。米による納税の査定基準の公正と公平が保たれるように知恵がしぼられた。

ここで特に強調したい重要なことがある。それは日本では、税の額は決して農民の頭越しにお上によって一方的に決定されたのではない、ということである。納税額を決める際に、農民は村の代表者と通して協議・決定に参加する権利を持っていたのである


これまで日本史の自虐史観的教科書で教わってきた「搾取され、虐げられる日本の農民」というイメージがいかに、マルクス・レーニン史観にもとづく、表面的で内容の乏しいものか理解できるというものだろう。

階級闘争的歴史観は過酷な状況で生きたヨーロッパだからこそ、生まれたものだとも言える。

我々日本の先人たちは、『文明の衝突』の著者・アメリカ合衆国の政治学者サミュエル・ハンチントンの論に拠るまでもなく、中華文明とはかけ離れた、独自の高度で民主的な文明を築いてきたのである。
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2007年09月29日

近世における日中欧・女性の比較

科挙に合格した官僚など極一部のエリートしか文字が書けない中国と違い、日本人の近世における識字率が、格段に高かったことは周知の事実である。

女性を比較した場合はどうなのだろう。言うまでもなく中国や朝鮮では、女性が文学を書くことはおろか、ほとんど文字を読むことが出来なかった。


では、日本女性の場合はどうかと言えば、メーチニコフの『回想の明治維新』に下記のような面白い記述があると、歴史研究者・網野善彦氏が述べている。



「彼は、明治七、八年ごろに日本に滞在したロシア人ですが、横浜で、人力車夫、馬の別当、お茶屋さんで使われている娘さんなどが、暇さえあれば、懐から小さな冊子を出して本を読んでいるのを見て、非常にビックリしています。メーチニコフは、ラテン系の諸国および我がロシアに比べれば、日本人のほうがはるかに識字率が高いと言っております。これは注目すべきことで、日本の前近代社会を考える場合に、或いは近代以降の社会の問題を考える場合にも、度外視できない重要な事実だと思います」

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清少納言(菊池容斎・画、明治時代)

「女性が早くから独自(平仮名)の文字を用いていたと言うことは、日本文学の問題を考える場合、非常に重要な点でして、女流の文学が『枕草子』『源氏物語』以来、13世紀後半の『とはずがたり』、14世紀の『竹向が記』まで、連綿と書かれているのは、もちろんそのことが前提になっています。しかし、前近代に女性がこのようなすぐれた文学を多く生み出した民族が、はたして世界にあるのかどうか。私は他にないと思います

ポルトガルの宣教師・フロイスが、「ヨーロッパでは女性は文字を書かないけれども、日本の高貴な女性はそれを知らなければ価値が下がると考えている」と述べているように、日本女性の識字率はヨーロッパ諸国と比較してもはるかに高かったと言える。


さらにフロイスは、「日本の女性は、処女の純潔を少しも重んじない。それを欠いても名誉も失わなければ結婚もできる」 「ヨーロッパでは、財産は夫婦のあいだで共有できる。ところが日本では各人が自分の分を所有している。時には妻が夫に高利で貸し付ける」

「ヨーロッパでは、妻を離別することは最大の不名誉である。日本では意のままにいつでも離別する。妻はそのことによって名誉を失わないし、また結婚もできる。日本ではしばしば妻が夫を離別する」 「日本では、娘達は、両親に断りもしないで、1日でも数日でも一人で好きなところへ出かける。日本の女性は、夫に知らせず、好きなところに行く自由を持っている」というように、戦後の自虐史観に基づく教科書的な常識とは違う価値観を述べている。



網野善彦氏によれば、「これまでの通説では、江戸時代は女性には離婚する権利がない。嫁に行っても夫やその親の気に入らなければ簡単に離縁される、嫁の方から離縁を求めることなどとても出来なかったと、考えられてきました。ですから江戸時代の女性の立場は、男性によって非常に抑圧されていた、まったく自分の主張ができなかったとされてきました。ところが最近、実際はだいぶ違っていたことが分かってきたのです」と言う事らしい。

今日のような女性観が出来上がったのは、明治以来キリスト教的価値観が、次第に日本人の中に浸透してきた結果なのである。


中国や朝鮮・ヨーロッパ諸国と比べて、日本の女性は昔から自由を謳歌し、ある意味で男性よりも強かったようだ(笑い)。









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2007年09月26日

なぜ、日本人だけが黒船を自作できたか

「黒船の来航については、次のことが言われている。
『黒船に乗った白人は世界中に行った。しかし、黒船を見た途端に、自分達で黒船を作ったのは日本人だけだ』−と」

日本の武士は、何も武術のみを研修していたわけではない。文武両道と言う言葉があるように、学問に秀でた人々も非常に多かったのだ。

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(写真はペリー艦隊)

「黒船が来たのを見て自力で黒船を作った藩が三つあった。島津の薩摩藩・鍋島の佐賀藩・伊達の宇和島藩がそれで、黒船来航からわずかの期間で蒸気で動く船を造ってしまった。別に白人の指導を受けたわけではない。

日本では、長年続いた禁制があったため自由な発展が出来なかった自然科学の分野においても、当時の最先端技術である蒸気船が自力で造れるほどに人知が進んでいたということである。

また、日本人は日米和親条約締結の前後、しばしば黒船を訪ねている。その時の日本人の様子をアメリカ人が書き残しているが、当時の日本人の知力の高さがうかがえて、たいへん興味深い。

アメリカ人達は、『野蛮国』の日本人がさぞや驚くであろうと、最先端の機械などを次々と見せる。ところが、いっこうに日本人は驚かない。興味深そうにするのだけれど、驚きの様子がない。また、見たものは何でも触ろうとする。『こんなに何でも触りたがる人種は他に見たことがない』とアメリカ人が呆れるほどであった。そして、要所要所では、懐から帳面を取り出して、スケッチしたという。

これを、当時の日本人の側に立って説明すれば、驚かないのは当然の話で、すでに西洋の文物はあらかた読んで知っていたのである。それに、根底には『自分達だって造ろうと思えば、すぐに出来る』という自信があったから、ひるんだりしない。ただ、実見するのは初めてだから興味津々であっただけの話である。

幕末・明治の人々は、それこそ欧米先進国と自分たちとの工業技術の差の大きさに愕然とした。

しかし、当時の日本人たちは愕然とはしたけれども、絶望はしなかった。それは『我々は鎖国の平安の中で寝すぎただけだ』という、いわばウサギとカメの競争での、ウサギの後悔の心にも似た心境であった。

だからこそ、あっと言う間に黒船を自作してしまう藩が現われたのである。そして、これを可能にしたのは、知力の高さも不可欠だが、それ以前に『もはや欧米諸国には追いつけない』という絶望感は、当時の日本人には微塵もなかったからに他ならないだろう

さらに、世界中の有色人種の中で、西洋文明に対し、当時そのようなイメージを持っていた民族は日本人の他にはなかったと断言できる。

日本人以外の有色民族は、西洋文明に対し、自らは挑戦不可能と思うか、あるいは反発心のあまり、西洋文明を全否定したりするような態度をとった。



引用文献・・・「かくて歴史は始まる」渡部昇一著・クレスト社 



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2007年09月25日

会津の小天狗 武田惣角

このカテゴリー「偉大なる先人達」は、戦後の教育で忘れらて来た、日本の偉人達のエピソードを紹介することで、今一度日本人としての誇りを取り戻していただきたいとの思いから、このブログに関係する「武」に関わる人物を中心に書いています。

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会津の小天狗と呼ばれた武田惣角は、万延元年(1860)10月10日に生まれた。

幼少の頃、戊辰の役が起こり、会津藩は薩長土肥の連合軍に攻撃されて滅亡に追い込まれている。

惣角は、武術に関しては幼少の頃より才能に秀でており、会津藩指南役・渋谷東馬から小野派一刀流を学び、さらには棒術・相撲などを習得している。

明治10年には大阪で、幕末に江戸の三大道場の一つと言われた鏡新明智流の桃井春蔵の客分となり、向かうところ敵なしの剣は、会津の小天狗と恐れられた。

この頃のエピソードとして、福岡県下で道路工事の荒くれ労働者40〜50人を相手に大乱闘をしている。通りがかりの人に難癖をつけては身ぐるみを剥ぐような荒くれ者とふとしたことから争いになり、ついにはツルハシや天秤棒を担いだ労働者達に一斉に襲い掛かられるという窮地に陥った。彼はこのとき真剣をふるって活路を開いたが、このとき8,9人を切り伏せたという。 

惣角はこのため牢獄につながれたが、荒くれ労働者達の悪行が明らかとなり、無罪放免となっている。

彼の剣の腕前がいかに非凡なものであったかと言うエピソードとして、後年北海道で開かれた剣術の大会を見物に行った時のこと。惣角は優勝した小野派一刀流の佐々木亮吉に引き小手は使わないほうがいいと忠告した。が、佐々木が「せっかくだが、私の引き小手は打たれたことがない!」と言い返すと、惣角は相手に小手をつけさせ、自らは防具も付けずに向かい合った。

佐々木が構えるや否や、惣角の片手打ちが続けざまに打ち込まれ、引いても払っても防ぎようがない。真っ青になった佐々木が、負けを認めて小手を外して見ると、両腕に10円大のアザが出来ていた。惣角の打ちがいつも同じところに命中していたからだ。


明治31年惣角は、宮城県伊達郡の霊山神社に元会津藩家老の保科ちかのりを訪ねている。自身も白河口総督として戊辰戦争で戦い、妻子を含め一族21名全員が自害して失意のどん底にあった保科は、大東流を継承する武人であり、優れた後継者を探し出して技を託すことが唯一の願いだった。

「もはや剣の時代は去った。大東流の秘法を後世に伝えられる後継者はお前以外にはないのだ」との意味の道歌を送られた惣角は、この歌によって翻然とさとり、その後の半生を大東流の指導にささげる決意をした。

後年、惣角が一等列車に乗っていた時のこと、仙台第二高校の英語教師チャールズ・パリーが、惣角のみすぼらしい服装に不審を感じて車掌を呼んだ。車掌が検札したが、惣角は確かに一等切符を持っている。
「なぜ私だけを調べるのか?」と聞くと車掌は「実はあそこにいるアメリカ人が、あなたを不正乗車ではないかと言ったものですから・・・」と弁解した。怒った惣角が、「無礼者!」とパリーに詰め寄ると、パリーは相手を小男(惣角の身長は155センチほどと言う)と侮ってボクシングのスタイルで身構えた。すると惣角は、無造作にその手首を掴んで逆関節にねじりあげて、激痛のあまり抵抗できないパリーをデッキまで引き立て、その半身を外に押し出したのだ。驚いたパリーは平身低頭して謝罪したと言う。

後年アメリカに帰国したパリーは、「日本には大東流という恐るべき技がある」と報告したが、それを聞いたルーズベルト大統領は強い関心を示し、正式に大東流の指導を要請してきた。惣角は門人の原田信蔵を派遣し、アメリカの地に大東流の一部が伝られた。

新手天地の北海道で無頼漢の暴動を鎮圧・・・その頃の北海道は、新天地開拓を夢見る者、或いは犯罪者など雑多な人々が西部劇よろしく押し寄せたため犯罪も多発し、博徒や無頼漢が横行して人々を苦しめていた。そんな中で、裁判所で取り調べ中の被疑者を釈放しろと、凶器を持った暴漢数名が判事の自宅に押しかけるという事件が起こった。

手を焼いた函館裁判所が、全国に勇名を馳せていた惣角に来道を要請。それに応えて、明治37年7月6日、惣角は情勢不安な北海道に乗り込んできた。

それから10日あまり後のこと、風呂帰りの惣角に、5〜6人の博徒が短刀を振りかざして襲い掛かってきた。彼らは惣角が身に寸鉄も帯びていない隙をうかがっていたのだ。ところが惣角は、濡れ手ぬぐい一本でこれを撃退、腕やあばら骨を折られた相手はほうほうの体で逃げ去った。

その仕返しを恐れ、惣角に逃げて身を隠してほしいと懇願する旅館の主人に、惣角は「鉄砲が怖くて第二師団の教授がつとまるか。暗くなれば殴りこんで、死人の山を築いてやる!」と言った。この話は相手方の耳にも届き、総勢200人ほどの博徒たちは、あべこべに震えあがったという。

やがて夜の帳が下りると、惣角は闇にまぎれて旅館を抜け出した。彼は博徒の本陣には向かわず、敵の総帥・森田常吉の自宅に乗り込んで一気に勝負しようとしたのである。

森田の家に着くと、玄関口に3人の男がいた。と、その中の一人が惣角の顔を見るなり「武田先生ではありませんか?」と問いかけてきた。この男は今でこそ森田の参謀格に身を落としているが、かつて惣角に教えを受けたことのある元巡査部長・笹島虎之助であった。

惣角の恐ろしさを知る笹島は、「裁判所の用心棒が武田先生とは知らず、まことに申し訳ありません」と誤り、事の次第を森田に伝えた。

惣角と会見した森田は、事情を聞いて自らの非を認め、今後、子分達に無法を許さないことを約束したという。

後年、この大東流合気柔術が、惣角の弟子達・植芝 盛平・奥山龍峰らによって合気道・八光流柔術などの武道として、現代にも受け継がれている。


引用文献・・・「幻の神技 大東流合気柔術」MU AV BOOKSより



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2007年09月21日

元軍が畏怖した鎌倉武士

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文永の役・弘安の役での元寇といえば、高校の教科書でも、神風が吹いて日本は辛くも救われたとの記述が多い。

しかし、実際は勇猛果敢な鎌倉武士が、元軍を圧倒し、その日本上陸を許さなかったと言うのが史実に近い。

実際、文永の役(1274年)でも、神風が吹いたとされているが、その月は新暦では11月後半、この季節日本に台風はほとんど来ない。

事実、元寇の基礎資料「八幡大菩薩愚童訓・筑紫本」には、一夜明けたら大艦隊が消えていたとの記述があるだけで、台風によるものとのは書かれていない。

また、蒙古側の史料「元史・日本伝」にも、矢が尽き統制が取れなくなったので撤退するとあるだけである。

そこには、暴風で船が沈没したとか、数万もの元軍の水死体が波打ち際に打ち上げられたとの記載はない。

文永の役では、多少の暴風が吹いたとしても、実際にはそれが原因で元軍が敗れたと言うより、数では劣勢だが、勇猛な日本軍を前にして逃げ帰ったと言うのが本当の所だろう。

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弘安の役(1281年)では、鎌倉幕府軍は博多湾に延々と石塁を築き、二ヶ月もの間、蒙古の本格的な上陸を防ぎ続けたばかりか、果敢に攻めてこない元軍にたいして、痺れをきらせた日本軍は、投鉤や打鉤を元の船団に投げかけ、敵船団に雪崩れ込んで、白兵戦を挑み片っ端から切りまくっている。

日本軍の執拗な軍船への夜襲や焼き討ち、船内での疫病の発生もあり、このまま座して死ぬよりはと総攻撃の決意を固めた矢先、台風が発生し、元軍の船舶はことごとく海に沈んだ。

ここでも、耳目すべきは暴風よりもむしろ、14万もの元軍を約二ヶ月ものあいだ、本格的な日本上陸を許さず、その侵略をことごとく跳ね返したと言う点であろう。

初戦こそは、名乗りを上げて一騎打ちを挑む鎌倉武士に対して、集団戦を駆使し「てつぽう(手投げ弾)」や「毒矢」で攻撃する元軍は、優勢だったに違いない。
しかし、ヨーロッパではリーグニッツでポーランド軍とドイツ騎士団の連合軍を打ち破り、ユーラシア大陸のほとんどを征服した、さしものモンゴル軍も、短弓が何本刺さっても(元軍の矢は日本の鎧に対しては、貫通せず致命傷とならない)平然と白兵戦を挑んで突進し、切れ味抜群の日本刀で、革の鎧などあって無きがごとく切りまくる、勇猛果敢な鎌倉武士に対しては畏怖し逃げまどっている。

モンゴル軍何するものぞと我も我もと攻めてくる武士の夜襲を恐れ、船上で夜営をしなくてはならなくなったからこそ、台風でことごとく海の藻屑と成り果てたのだ。もし、元軍の上陸を許し、九州の一部が征服されていれば、神風がいくら吹いたところで、何の助けにもならなかったことは明白だ。

元軍を敗退させたのは、決して神風だけによるものではない。



余談・・・『 日本刀の評価は、元寇や倭寇、秀吉の朝鮮出兵という実戦で、日本刀の実用性が中国の刀剣よりはるかに上を行くことで実証された。触れれば切れ、兜をも両断する「鋭さ」と乱戦で振り回せる「機能」に、中国兵は恐れおののいた。

倭寇の鎮圧を務めた武将・威継光は、「日本兵の動作は機敏で、刀が長い。我が軍の剣では短くて接近できず、槍などの長い武器は機敏ではないため、柄ごと一刀両断されてしまう」と、接近戦における日本刀のメリットを語っている。 』・・・「日本と中国・歴史の真実」リュウ・ブックス・アステ新書より。

以下の映像は、日本刀と西洋のロングソードとの性能の比較だ。この中で、元軍が装備していたのと同等の革の鎧(かぶと)を日本刀は、たやすく両断している。

ちなみに、日本刀はロングソードが切り裂くことの出来なかった、革の鎧や氷をも易々と切断している。

【Japanese Katana VS European Longsword - Samurai sword VS Knight Broadsword 】
http://www.youtube.com/watch?v=EDkoj932YFo

posted by かたばみ at 12:16| Comment(3) | TrackBack(0) | 偉大なる先人達 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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