2011年02月12日

天皇(大和朝廷)= 渡来人説の大嘘

今もなお・・・過去に教わった歴史教育のまま、紀元前から6〜7世紀の頃にかけて、後に皇室となる先進文化を持つた多くの渡来人が、朝鮮半島から日本列島に移り住んだと思い込んでいる人々は多いのではないだろうか?

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【吉野ヶ里遺跡】

これは過去の歴史学者が、以下に述べるように物的証拠のない、推論と固定観念による誤解をして来たからである。

第1の間違いは・・・古代の朝鮮が日本より先進的であり、また朝鮮半島や大陸から多くの渡来人がやって来たという誤解。

第2の間違いは・・・文化(知識や発明)の伝播には、必ず人種の移動や先住民への征服が伴うという固定観念。

第3の間違いは・・・天孫降臨という古代の人々のイマジネーションを、単純に地理的関係へとこじつけた点。


以下、直近の考古学調査や参考文献などを引用してそれらの誤りを正していきたいと思う。


【第1の間違い】・・・古代の朝鮮が日本より先進的であり、また朝鮮半島や大陸から多くの渡来人がやって来たという誤解。

縄文時代から弥生時代にかけて、大陸から渡って来たとされる支那人の生活文化や土器を伴う集落は発見されていない。つまり支那人がこの時代に日本列島に移住していた痕跡はなく、従って彼らには大和朝廷を築くほどの人口もなかったし、それを担うほどの支那文化も伝えられてはいない。

それでは古代朝鮮人は皇室となりえたか?・・・答えはやはり否である。その理由は、縄文時代や弥生時代の日本列島に朝鮮系集落はなかったし、倭人文化の方がはるかに優位に立っていたからだ。

「弥生時代前期後半から北部九州において朝鮮系無紋土器(朝鮮半島で作られたと思われる土器)が、玄界灘沿岸に点在する遺蹟から出土する。ただし、その数は一遺蹟当たり多くて数個程度であり、これらは小規模な交易、土産物、偶然の漂着によってもたらされたに過ぎない

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【朝鮮系無紋土器】

この地域には朝鮮系無紋土器を伴う、朝鮮系と見られる諸岡タイプの遺蹟もわずかに存在するが「この朝鮮系とおぼしき集団の居住区は、弥生(倭人)集落エリアの住み心地の悪いほんの一角を占めたに過ぎず、しかも程なく消滅した

また擬朝鮮系無紋土器(弥生土器の影響を受けて朝鮮系無紋土器から変容した土器)が出土する集落がある。しかし、「その数も10箇所程度であり、確実な出土例は現在のところ北部九州にとどまり、北部九州の弥生遺跡からすれば極わずかだった。それは渡来人集落ではなく、弥生集落の中に渡来人が居たと思われる程度だった

朝鮮系渡来人の遺蹟が残されている北部九州でさえこの程度の規模なのだ。事実に基づいて客観的に考えれば、古墳時代も含めこの人口と呼べるほどの人数もいない朝鮮系渡来人やその文化が、稲作を始めとする農耕などの文化的先進地・倭国に大和朝廷を築き上げるほどの影響力があるはずがない

文化の先進性で言えば・・・朝鮮式土器は、半島に移住した縄文人の縄文土器が変容したものだし、生活品・農具・鉄器や武具などの出土品や古墳・集落・建造物・生活文化の規模などは朝鮮半島と比べ物にならないほど倭国のスケールは大きい。中には仁徳天皇陵など世界一の規模を持つものまである。これなどは当時の日本の国力や土木技術の水準がいかに優れていたかを物語る。

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【墓域面積が世界最大の大仙陵古墳(仁徳天皇陵)】

例えば稲作では「遼東半島や朝鮮北部での水耕田跡が近代まで見つかっていないこと、朝鮮半島での確認された炭化米は紀元前2000年が最古で畑作米の確認しか取れないこと(水田跡については日本が2500年前であるのに対して、半島は1500年前)、極東アジアのジャポニカ種稲のDNA分析において、一部遺伝子が朝鮮半島を含む中国東北部稲からは確認されないなどの点から、いまでは朝鮮半島伝来説の支持者は少ない。近年では教科書などからも説が除外された」

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【弥生時代の武器】

だからこそ随書など中国の文献に「新羅も百済も倭国を大国と見ている。優れた品々が多いためで、新羅も百済も倭国を敬仰し、常に使節が往来している」とあるのだ。

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【『隋書』(ずいしょ)は、二十四史伝の一つで第13番目にあたる】

朝鮮半島が勝る点があるとすれば、そこから産出された良質の鉄だけである。(この鉄を求めて倭人や漢人が半島に進出していた。今で言う、レアメタルを求めて後進国に赴くようなものだ)


「縄文時代から弥生時代への移行期へのムラでは、水田遺構と共に発掘された土器を始め生活文化の殆どが縄文であり、やがて弥生土器が混在し文化的にも断絶なく弥生の要素が次第に増えていった」


言うまでもなく弥生土器は倭人が作った土器である。そして「朝鮮半島には、日本の弥生式土器、それに伴う石器と類似の物が、かなり濃厚に分布している」


これらの事実は、氷河期が終わり大陸から独立した文化圏を持つ縄文人が、時代をへて緩やかに弥生人へと骨格的にも文化的にも変遷をして行ったという過程を示したものであり、そこには渡来人の移住や影響力はなく、むしろその倭人が海を渡り朝鮮半島にまで居住の地を広げていたという事に他ならない。

その傍証としては・・・古代の中国文献や広開土王陵碑の碑文、日本書紀の欽明紀にある任那日本府などから読み取れる倭人の朝鮮半島支配とその影響力など多々ある。新羅の王が代々その権威である冠に、糸魚川の翡翠(縄文人の装飾品である翡翠文化)を付けていたのは有名な話だが、その理由は実に単純な話で、新羅はその建国から倭人が深く関わっており、四代目の王・脱解やそれ以後数代にわたり新羅の王が倭人だったからであり、彼らはその権威付けに朝鮮半島より文化の進んでいた倭国の権威が欲しかったし、倭人だったという誇りと経歴を伝えたかったからだろう。

*『広開土王碑』・・・「倭が新羅や百済を臣民とした」
*『三国史記 第一巻 新羅本記』・・・「第4代国王の脱解王は、倭の多婆那国から日本海を流れてきた賢者であり、総理大臣も倭人を据えた 」
*朝鮮半島で発見されている日本列島独特の墓制である前方後円墳の存在

つまり、日本列島への朝鮮系渡来人の影響はまったくと言っていいほどなく、むしろ縄文時代から続く倭人の朝鮮半島への文化的・武力的支配の影響が大きかったのである。縄文時代からの勾玉・翡翠文化を継承している大和朝廷が、朝鮮系渡来人である可能性はゼロに近い。皇室のルーツは間違いなく縄文人にある。

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【勾玉】


【第2の間違い】・・・文化(知識や発明)の伝播に人種の移動や異民族への征服が伴うという固定観念。

文化は、必ずしも人種の移動や異民族の征服を受けてもたらされる分けではない。実例を挙げれば、紀元前2000年頃に栽培が始まった北アフリカや中近東地方原産のメロンが日本列島にも伝わり、縄文時代後期の菜畑遺蹟で栽培されていたが、もちろん西アジアに住む異民族が日本にやって来た分けではない。

これは西アジアに起源を持つ農耕や製鉄の技術に限らない。数学や天文学や宗教なども同様だ。文化(知識や発明)はあたかも波のように伝播し、その速度は民族間の摩擦を生じる人種の移動よりも早く伝わる。

これはあたかも一端を握ったロープを上下に降ったとき、それが伝える波と似ている。ロープの一点(定住している民族)は単に上下し決して移動しないが、波(文化や知識)はもう一方の端にまで達する現象にも似ている。

文化とは交易などを通して、見て模倣しそれを取り入れていく事で民族から民族へと波のように伝わって行くものでもある。海洋民族・倭は朝鮮半島を中継点の一つにして中国大陸とも交易を行っていた。そこから得られる中国文化の運び手はあくまでも倭人である従って、中国文化の倭国への伝播は、支那人や朝鮮人の移動や移住を必ずしも必要としない。


【第3の間違い】・・・天孫降臨という古代の人々のイマジネーションを、単純に地理的関係へこじつけて歪曲した点。

「高天原とは空の上ではなく、天皇は倭国の以外の遠いところ。恐らく、朝鮮半島か大陸の何処から来たのに違いない」と考える歴史学者は案外多い。しかし、これはあまりにも視野の狭い見方だと言わざるをえない。

天孫降臨は日本だけのオリジナルではない。世界中いたるところにある。(これら天孫降臨に類した神話はアジアにも広く分布している。その一つモンゴルの神話では至高神サガンの孫ゲゼル・ボグドゥが、六種類の神器を授かって地上に天下り、国を建てたとある)

天孫降臨を単純に地理的関係に求めるのは、古代の人々の見上げれば雄大に広がる未知の世界(天空)に対するイマジネーションを、まったく無視したこじ付けとも言える。

日本の古事記のみならず、メソポタミアなどの西アジアやギリシャ・エジプトの神話やインドの「リグ・ヴェーダ」では、まず混沌の状態の宇宙があり、そこから神が天と地を作り国が誕生し、その後人間などの生命を誕生させたとしている。

方角や距離、文化の高低からは混沌を決してイメージできない。

天空から混沌をイメージするものは雲だ。雲は常に形を変えてカオスの状態であり、豪雨や暴風を生じ、稲妻を発生させ太陽を覆い隠す。また雷や暴風や大雨や日食は人知を超えた天の力(神)を感じさせるものである。

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天気と農耕は密接不可分である。その農耕の発祥の地はメソポタミアである。恐らく天孫降臨神話はその起源が西アジアにあり、それが灌漑などの農耕技術や土地の面積を求める数学の普及とあいまって、他民族の神話と融合し世界各地に広がって行ったと見るのが妥当だろう。

(人の脳は、在る部位に電極などの刺激を受けると体から心が遊離する感覚が生じ、同様に神のような大きな存在をも身近に感じることが実験的に実証されている。つまりこれらの感覚は潜在的に人間に備わっているのだ。これら脳に生じる超体験的感覚と天空のイメージが合わされば、天孫降臨伝説は容易に想像できる)

この古代人のイマジネーションには、驚くことにもう現代の生命の起源論(宇宙物理学や物質の進化[自己組織化]から生命の起源をさぐる研究)が萌芽している。

地理的な関係を強いて言うのであれば、古事記や日本書紀では皇室は南方の海から来た人々だとしている。

つまり海洋民族である倭人にとって、古代(縄文時代)の九州は、何もなく不毛な朝鮮半島より、スンダランド(東南アジア)との交流が深く、その表玄関だったという方が正しい


ここまで書けばもうお分かりだろうが。これら世界各地の伝説は朝鮮半島と地理的にもまったく無関係だ。日本の神話だけを地理的関係(朝鮮半島)と結び付けようとする学者は、根拠もなく自虐史観から単にそうあって欲しいと望んでいるだけである。(赤い眼鏡をかけた学者には、何を見ても赤い色が加色されている)

ちなみに・・・ 古事記に出てくるヤマトタケルの東征などは、単に、朝鮮半島より農耕の先進地であった北部九州の弥生人(縄文人)の一派が勢力を増し、東に住む同じ倭人を傘下に収めていっただけの話。縄文時代から倭人の影響下にあった朝鮮半島とはまったく無関係。


参考文献

「弥生時代渡来人と土器・青銅器」片山宏二・著 

「日本人のルーツの謎を解く」展転社・長浜浩明著

その他
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2011年01月09日

中国文化の源泉は西アジア

今でも、日本など東アジア諸文明の原点が、中国文明にあると考えている人々は多いだろう。

この誤りは、文明の起源が世界四大文明(メソポタミア文明・エジプト文明・インダス文明・黄河文明)にあると言う仮説から刷り込まされた、一昔前に流布し考古学の知識が少なかった時代の古い概念に由来する。

【ウィキペディア・・・世界四大文明とは人類の文明史の歴史観のひとつ。 歴史上、4つの大文明が最初に起こり、以降の文明はこの流れをくむとする仮説。四大河文明とも言う】

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(メソポタミア地域)

これも一昔前、人類は諸大陸で同時発生的に誕生したとする説が主流だった。この人類同時発生説と密接にリンクしたのが、四大文明説だった。しかし、今ではDNAの解析などにより、人類の起源はアフリカにあることが判明している。これは文明の発達にも同じことが言える。

文明は人類の到達した足跡に沿って、つまりアフリカに近い地域から発達し、遠くへと伝播して行った。

分かりやすく上記の世界四大文明を例にとって大雑把に述べれば、まず紀元前9000年頃、アフリカに近いメソポタミア地域にシュメール人が移住し世界最初の農耕が始まると、メソポタミア文明が起こり灌漑技術生み出す。その後数千年を経てエジプト文明が誕生し、それら文明の影響を受けたインダス文明から黄河文明へと文化が伝播し継承されて行くという道筋をたどる。

日本人は良く、農業技術(灌漑技術)や数学など諸々の文化が、中国を発祥の地だと勘違いをするが、実はそれら人類の転換期となった技術ほとんどが西アジア発祥なのだ。

少々脱線するが、文化の伝播の担い手である古代の交通交易網や情報網は、現代人が想像する以上に発達していた。それは、北アフリカや中近東地方の原産であり、その地で紀元前2000年頃に栽培が始まったメロンが、縄文時代後期の菜畑遺蹟で栽培されていたことからも分かる。

西アジアやアフリカからもたらされた文化の具体的な例をあげれば、先に述べたように農業はメソポタミアから、牧畜は約8千年前から北アフリカやメソポタミアなどで始まり乳製品が作られている。

金属の利用は、紀元前約7千年頃、西アジアと東南ヨーロッパで自然銅を溶融し鋳型に入れて生成する冶金方法が発明される。その後、銅に錫や砒素を混ぜて実用に耐える強度を持つ青銅がメソポタミアを中心にした西アジアで発明された。

鉄を精製する技術は、紀元前3000年頃の西アジア(北シリアのチャガール・バザール遺跡やバグダットのアスマール遺跡)から最古の鉄剣が出土している。青銅器同様にその精錬技術は中国を経て日本にまで達している。

【日本最古の鉄器についての余談・・・「弥生時代は、紀元前五世紀ごろに始まるとするのが通説。しかし、国立歴史民俗博物館の研究グループが発表した新説では、弥生時代のスタートとなる稲作伝来が、定説より約五百年早い紀元前十世紀ごろとする。九州北部で出土した土器などを放射性炭素(C14)年代測定の最新技術で分析した結果がその根拠となった。」(中略) 「しかし同県の曲り田遺跡から出土した鍛造の鉄斧(てつぷ)は、新説への疑問を投げかける。一緒に出土した土器からみて、紀元前五世紀ごろの日本最古の鉄器とされてきたが、新説に従えば紀元前十世紀近くとなる。中国では西周の時代に当たる。」(中略)「当時は中国でも鉄器の加工技術が十分に確立されていなかった」と弥生文化博物館の三木弘学芸員。「五百年さかのぼれば、日本が鉄器技術の最先端地だったことになってしまう」以下略・・・ 神戸新聞・2003/06/04)

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(石崎曲り田遺跡から出土した板状鉄斧)

しかし、縄文時代初期から中期にかけて、中国を凌ぐほどの文化を生み、世界最古の土器を高温で生成する技術を有していた縄文人(倭人=弥生人)からすれば、鉄の精製はそれほど困難な技術とも思えない。西アジアからの距離を考えれば、距離的に近い中国と日本に、ほぼ同時期(百年前後の差)に鉄器の技術が伝わり、日本で鉄斧が作られたとしても何の不思議もない。】


話を戻すと・・・成文化された最古の法典は、紀元前1,700年頃に発布されたハンムラビ法典である。(メソポタミアでは、それ以前にシュメール人やアッカド人達が法律を作り国をまとめていた。)この法典は、刑罰だけでなく、商法、財産法、家族制度、など人々の生活に関わる細かな分野にまで及んでいる。
中国最初の律令は、西晋が268年に制定した泰始律令である。律は刑罰法令、令は律以外の法令に相当する。これもまた数千年の時を経て、メソポタミアから中国に法の概念がもたらされたことは自明の理である。

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(ハムラビ法典)


外海を航行できる木造船には、船体の強度を増すための竜骨が不可欠だ。その竜骨は紀元前1500年頃に、地中海に乗り出すために優れた造船技術を持っていたエジプトで作られた。その後、この竜骨構造は東アジアなど世界各地に広がってゆく。

陸上の交通機関に不可欠な車輪は、紀元前3500年ごろのメソポタミアで発明され、急速に世界各地で普及した。

(古代においても先端技術は、瞬く間に各大陸に普及している。西アジアより数千年も早く日本で発明された土器(縄文式土器)などは、朝鮮半島を経て中国に製造方法が伝わり、西アジアにまで達した逆の事例だろう)

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(縄文式土器)

紙は、中国で後漢時代の蔡倫が発明したと言われるがこれは誤りだ。紙は前漢時代の遺蹟からも発掘されていて、そのルーツはエジプトのパピルスにある。パピルスの製造方法は、基本的な部分(植物の髄から出る粘液を利用して、繊維同士を接着するなど)で、紙と同じような製造方法を持つ。

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(パピルス)

世界最古の文字は、メソポタミアのシュメール人によって、紀元前3300年頃の文書(粘土板)に書かれた楔形文字である。文字で政治経済や文学などを記すというアイデアは、やがて中近東に波及し、そこから様々な文字の開発へとつながってゆく。その後約1500年を経て、文字のアイデアは中国に伝わり、それが甲骨文字誕生の切っ掛けとなったことは容易に想像できる。

文字は、抽象的な線に意味を持たせると言うアイデアさえあれば、ハングル文字(1446年に李氏朝鮮第4代国王の世宗によって作られた)やモンゴルのパクパ文字(1269年制定)のように、ほんの数人で生み出すことが可能だ。

ちなみに朝鮮のハングル文字は、高麗王朝時代に、その宗主国であった元(モンゴル帝国)のパクパ文字をヒントにして作られた歴史の浅い文字である。

その他、西アジアから中国へ伝わったものを記せばきりがない。宗教で言えばゾロアスター教の影響があり、また現代社会に不可欠な印鑑(印章)や時計(日時計、水時計)、ソロバンなどなどである。



過剰なまでに自己中心的な中華思想をもつ漢民族は、異文化の影響を受けてその文化が発展してきたという歴史を歪曲し捏造して恥じない。

中国大陸は古来より、西方から移住してきた多くの異民族が斑模様のように広がり、数多くの国家を築いていた人種の坩堝だった(追記参照)。

漢民族は、その西方からの異民族を「化外の民」と呼び蔑むが、その実、漢民族の歴史は異民族に支配され、その先進的な文化を取り入れてきたに過ぎない。


チベット侵略や南京大虐殺のように歴史を捏造し、嘘を恥ともしない中国や中国人の道徳観のなさは、何も今に始まった事ではないのだ。以下・・・追記
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2010年09月21日

保守とは何か?

保守(Conservatism)とは何かこれを簡潔な言葉で表せば「公共を重んじる人々」と言うことになる。

対してリベラル(liberalism)とは、「個人を重んじる人々」だろう


戦後の日本社会は、日教組に代表される左翼的リベラルが、一貫して「個人の権利」ばかりを追求してきた時代だった。教育現場では・・・生徒は過度に「個人の権利」を教えられ、「国民としての義務」はおざなりにされてきた。

その結果が、学級崩壊であり、モンスター・ピアレントなど常軌を逸した人々の出現であり、行き過ぎたほどフライバシーや人権を慮るために、虐待される子供たちを救えないという社会の出現である。

左翼的リベラリストは、社会秩序を破壊することは得意だ。彼らが推進する、人権擁護法案、外国人地方参政権、改正移民法等々が好事例だろう。


世界には、誰もが個人の事しか考えない,そんな価値観を持つ人々が暮らす国家がある。ずばり、それは漢民族が支配する中国だ。彼らには道徳観念や公共を重んじる精神がまったく欠落している。個人だけならまだしも、国家自体が取れるものなら、何でも奪ってやれと言う無法国家だ。尖閣諸島や東シナ海のガス田問題などが良い例だろう。


日本は古より、聖徳太子の17条の憲法「和を持って尊しとす」の精神が示すように、個人よりも「社会の公共性と義務」に力点が置かれた社会を育んできた。

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聖徳太子

現在の憲法でも・・・第3章 国民の権利及び義務。第12条 【自由、権利の保持の責任とその濫用の禁止】
 
「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。 又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」とあるように、過度の個人の権利は公共の福祉に反するとされている


日本の社会が、世界で最も安定し、暮らしやすいのは、この古から培われてきた「公共の精神」の賜物である。

私は、人々が個人の権利だけを追求する、公共性や道徳性の失われた、中国のように無味乾燥で殺伐とした社会に生きたくはない。

戦後の左翼教育の集大成のような、プロ市民上がりの政治家がついに首相となった日本。子供たちの未来に大いに不安を感じる。

保守(公共精神と義務を重んじる人々)の復活は、もう望めないのだろうか・・・
posted by かたばみ at 10:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 偉大なる先人達 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月08日

朝鮮語の起源は、縄文人の言語

最近、「日本語の起源は百済語」という韓国の学者のトンデモ本を書店で見かけました。この著者・・・気は確かなのでしょうか? 
何故なら、百済語なる言語に関する文献は、朝鮮半島はおろか、中国や日本の古い書物にもまったく存在しません。

そもそも、訓民正音創製(1443年)以前の古代朝鮮語(百済語ではない)なる物ですら、誰にも分からないのです。
(国家の品格の著者・藤原正彦氏によれば・・・現在、古朝鮮語は200語ほどしか残されていないそうですね。)

(朝鮮民族は、縄文時代からはぼ人種が固定化され長い歴史を持つ日本民族とは異なります。直近でもモンゴル人の支配を受け、混血が進みました。言語の変遷も相当なものでしょう)

韓国の学者の論拠は、古事記など古い大和言葉と、さらに時代を何百年も下った朝鮮語に、たまたま似通った言葉があるからというだけの、馬鹿馬鹿しい屁理屈に過ぎません。また、百済という国名があるから、百済語が存在したはずだというのは、邪馬台国という国があるから、邪馬台国語があったというようなもの。朝鮮半島で話されていた新羅や百済の言葉に明確な違いが在るのか、方言ほとの差なのかさえも分からないのです。
 無から有を生じるのが得意な、朝鮮民族とは言え、呆れるばかりです。

これはむしろ、逆だったのだろうと思います。
以前に「朝鮮半島からは、縄文時代に相当する時期の人骨が殆ど出土していない」と考古学資料から引用したように、縄文人は朝鮮半島に住む民族がまだ少ない時期に、「朝鮮半島・東三洞の貝塚から出土した九州の縄文土器をよく見ると、形や文様が九州本土から出土する縄文土器と微妙に異なることが分かってきました。おそらく、九州から渡っていった縄文人が、その周辺で長期滞在して記憶がうすれたか、2世が土器を作ったために、九州にない九州の縄文土器になったのでしょう」・【発掘された日本列島2007(文化庁編・朝日新聞)】とあるように、半島南部に進出し、縄文土器などの先進的文化を持ち込み定住していました。

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東三洞の貝塚

(ちなみに、その頃の日本は木造建築の技術も相当進んでおり、長浜浩明氏の著書によれば「木造建築の先進性の証拠として、1万2千年前から弥生時代まで続いた富士山の桜町遺跡から、精巧な木組みを用いた4千年前の高床式建物が出土した。この事実から、高床式建物は稲作と共に渡来人がもたらした、なる説も「誤」であることが確定した。そして約35センチを単位とする尺度があったとも考えられ、奈良の法隆寺や東大寺の技術基礎はこの時代から育まれていたのである」という)

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桜町遺跡


以前にも書いたように、日本人は縄文時代にはすでに、言語・文化・人種・地理的にも倭人としてのアイデンティティーを確立していました。
(中国の文献には、倭人の言語が、他の民族とハッキリ区別できるとの記述が見えます。その中国は、今世紀にいたるまで、山を一つ越えると、言語が異なる多くの異民族同士が、集まって暮らしている砂のような国家でした。これは、日本統治以前の朝鮮半島でも言語的には似たようなものです。


その、朝鮮半島に定住し、また、時代を下っても尚、朝鮮半島に、大きな影響力を持ち続けた縄文人(倭人)の言語が、それ以降の朝鮮半島に大な影響を与えない分けがありません。

日本語と朝鮮語の語順など文法が似通っているのは、この縄文人の言語的影響が大きいのでしょう。
(現代でも、朝鮮語の約90%が日本語で、それを朝鮮式に発音しただけであり、その影響は朝鮮民族がまったく自覚していないほど自然に溶け込んでいます。

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【追記】

そもそも、日韓併合以前の朝鮮半島では南北、あるいは地域によって異なった土着言語が使われており、標準語(現在の朝鮮語)そのものが存在していなかった。

また支配者層である両班は、マンダリン(中国の公用語である官話)を使用し、土着の朝鮮語を蔑視していた。

現在の朝鮮語なるものは、朝鮮総督府(日本)によって、釜山周辺で使われていた日本訛りの朝鮮語を基礎にして作られたものだ。

その際、文法や語彙に欠損の多い朝鮮語を補うために、文法体系としては日本語の橋本文法 (学校文法)、語彙としては現在の中国語の約80%を占める和製漢語(日本語)が使われた。

だから、現在使われている朝鮮語は、日本語と文法や単語が共通していても当たり前なのだ。

結論をいえば・・・現在の朝鮮語なるものは日本語のサブセット言語、つまり亜種である。




参考(朝鮮半島への、倭人の影響力の範例)

@『三国史記』新羅本紀にあるように、「新羅より南方を一貫して”倭地”として扱っているのは、そこでは、倭人・倭種が政治の主導権を握っていたと見るほかはない」・・・(日韓がタブーとする半島の歴史)

A「新羅の4代目の王・解脱とその子孫の新羅の国王が倭人だった」・・・新羅本紀

B「新羅も百済も倭国を大国と見ている。優れた品々が多いためで、新羅も百済も倭国を敬仰し、常に使節が往来している」・・・中国の正史・「随書」
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2010年07月25日

「弥生人=渡来人」説の大嘘 @(病理学的・骨考古学・考古学遺跡・遺伝的見地からの否定)

私が学生時代には・・・弥生時代に大陸から多くの渡来人(弥生人)が日本列島に移住し、文化的に劣る縄文人を淘汰して、弥生文化を築きあげたと教わった。しかし、いまやこの縄文・弥生観は、誤った古臭い認識と言わざるを得ない。
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菜畑遺蹟・日本最古の水田跡(佐賀県)

各分野(遺伝学・古病理学・考古学等)の調査技術の進歩がもたらす最新データから、解明される古代史からは、朝鮮半島こそ逆に日本の文化や人的進出の影響を受けていたことが明らかにされている。

以下・・・散文風に「日本人のルーツの謎を解く」展転社・長浜浩明著を引用しつつ、「渡来人の大移住」「弥生人=渡来人」説の嘘を検証していきます。(ぜひ・・・心ある日本人の方には、日教組の自虐史観からの洗脳を払拭するためにも、この書籍の購読をお勧めいたします)

その@・・・「弥生人=渡来人」説の否定(病理学の見地から検証)

「成人T細胞白血病・ATLの患者やキャリア(東アジアでは日本人しかいない。中国・韓国には如何に調査してもまったく発見できない)の分布が九州や沖縄で圧倒的に集中していることから、ATLゼロの渡来人が北部九州に上陸し、稲作を始め、縄文人と混血し、人口が増加したのなら、その地のキャリアが真っ先に最小となるはずなのに逆に多くなっていると」言う点。

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菜畑遺蹟

「@ATLウイルスを持たない多くの渡来人が大陸や半島から渡来したのなら、わが国で最初に水田稲作が行われた北部九州や土井ヶ浜付近からゼロになるはずである。
Aだが、菜畑遺蹟のある佐賀、板付遺蹟のある福岡、土井ヶ浜のある山口県西部のあたりにキャリアが多く、対馬、隠岐の島、五島列島、長崎などはさらに高い感染率になっている。ついで多いのが近畿となっている。
B縄文人と渡来人との混血がキャリア減少の原因なら、渡来人が最初に上陸し、より早くから混血が進んだであろう、九州や近畿などの方が、関東や中部よりキャリアが少なくなって当然である。
C従って北部九州へとやって来た渡来人は少数だったし、子孫も少なかったと断ぜざるを得ない」



そのA・・・縄文人と弥生人の骨格の比較から「弥生人=渡来人」とする嘘。

骨格や歯型の比較から、「弥生人=渡来人」とする説には、重大なデータの欠落がある。それは、「縄文時代の終わりから弥生時代の開始時期にかけての、最も肝要な移行期の人骨がほとんど発掘されておらず、欠落していることである」

これを分かり安く例えれば・・・江戸時代から現在の日本人へと続く、「移行期の人骨データ」が欠落しているにもかかわらず、単に江戸時代の人骨と現代の日本人の骨格を比較して、アゴや頭骨・歯型・身長がまったく違うから、現代と江戸時代では人種が違っていると言っているに等しいぐらい馬鹿げた検証と説である。

戦後から今日にかけても、短期間のうちに、欧米化した食生活で日本人の骨格は、アゴが細く面長となり、ラングイ歯が増え、身長も高くなった。千年以上も隔たりがある縄文と弥生時代ならなおさら、骨格や歯の変化は大きい。

食文化の改善から言えば、栄養価の高い米作りは、日本の方が朝鮮よりも三千年も早い。(半島の米作りは紀元前1千年頃、すなわち今から約3千年前に畑作物として、栽培され始めた。日本の陸稲は6千年前の縄文時代にまで遡る。稲作は遺伝子の研究から、日本から朝鮮半島に伝播したことが、近年明らかになっている)

「縄文時代から弥生時代にかけては、日本の歴史上最も劇的に人々の生活が変わった時期である。農耕が本格的に始まり、主食もドングリからコメへと変わった。いずれにしても、新たな人々の流入が無くても当時の顔型や体つきの変化は十分説明が付くという点で渡来説とは真っ向ぶつかるものだ」

縄文人の食文化を補足すれば・・・縄文人は現代人が考えている程、狩猟に頼り原始的な貧しい暮らしをしていたわけではない。むしろ世界四大文明よりも、海の幸山の幸や農作物に恵まれ、四大文明より約三千年も先に発明された世界最古の縄文土器に代表されるように文化的にも、豊かな生活を送っていた。

菜畑遺蹟では「コメ以外にも、アワ、ソバ、大豆、などの穀物類に加えて、メロン、ゴボウ、栗、桃などの果実・根菜類も栽培していたことが判明した。中でもメロンが縄文後期に栽培されていたことは大きな驚きだった。さらに平成元年の発掘で儀式に用いたと思われる形のままの数頭のブタの骨が出土し、ブタが家畜化されていたことを裏づけた」 尚、この遺蹟からは石包丁、クワ、カマ、などの農機具、甕、壺、スプーン、フォーク、などの食器類などなどが出土している」


朝鮮人は、スプーンの作り方を日本人に教えてやったと自慢するが、「朝鮮なる国が体を成してしない3千年以前から、当時の人々はスプーンを使っていた」これはスプーンに限らず、漢字や鉄器などにも言えることだろう。

ついでに言えば・・・3世紀になっても、先端技術である鉄器の製造技術でさえ朝鮮人は倭人に劣っていた。(3世紀の倭人の刀剣は鍛造で作られていたが、朝鮮半島ではまだ鋳造で製作していた)

鍛造と鋳造では刀剣の強度が格段に違う。例えて言えば・・・木刀とガラスの剣で剣道の試合をするようなもので、鋳造製の剣は鍛造製の剣にいとも簡単にへし折られてしまう。

武器に、これ程の差がある事からすれば、倭人にとって朝鮮半島に進出することぐらい、いとも簡単なことだ。(半島南部に倭人の文化が多いのは、この事実・武力の差を裏付けるもの)



そのB・・・考古学遺蹟から見る「弥生人=渡来人」説の嘘

日本最古の水田跡がある佐賀県の「菜畑遺蹟は渡来人が最初に入植したムラではありえない。何しろ、縄文人の人たちのムラである証拠は山ほどあるが、シナ大陸から渡来人がやって来たという証拠は皆無なのだ。証拠に基づいて語れば話は逆で、縄文時代から九州の人たちは朝鮮半島南部に進出し、日本との間を行き来していた」

「北九州に成立した水田稲作文化は急激に東へ波及し(中略)。その波及には、多くの大陸伝来の要素が欠落しており、まさに縄文文化の中に稲作だけが持ち込まれた状態を示している。また、この地域では土偶・石棒のような縄文文化独特の精神的道具を保持しているのである。従って、この稲作の波及には渡来人の関与はなかったと考えるのが妥当であろう」


「北部九州から漢代の大陸系集落や土器・生活用具が出土したと言う話など聞いたことがない。つまり、大陸から渡来人がやって来たと言うのは単なる推測であり、物的証拠は相変わらずゼロである」

考古学的資料から導き出される結論は・・・渡来者の数は1年に2〜3家族ほどパラパラと来た程度であり、縄文人=弥生人の社会の片隅で細々と暮らし、やがては文化的にも人種的にも倭人に吸収されていったという考古学的事実である。

縄文時代に、地理的・人種的・文化的・言語的に倭人としてのアイデンティティーを確立し、大陸から独立した文化を形成した倭人の歴史に、渡来人の関与は殆どなかったと言える。



そのC・・・遺伝子から見た「弥生人=渡来人」の嘘

これについては、説明が長くなりますから前述の著書を参照してください。ただ、倭人(縄文・弥生人)が朝鮮半島南部に進出していた根拠をDNAデータから記述しておきます。逆ではなかったのです。(朝鮮半島から来た渡来人より、倭人の方がはるかに多く半島に進出していた)

「これまで、朝鮮半島と縄文人との関係について考えられることは殆どありませんでした。それは朝鮮半島からは縄文時代に相当する時期の人骨が殆ど出土していないためで、人類学者はその関係を考える資料を持たなかったのです。
その結果、これまでの人類学の理論は、弥生時代になって急に朝鮮半島との間に交流が生まれたような印象を与えるものでした。しかし、DNAの相互検索の結果を見る限り、朝鮮半島にも古い時代から縄文人と同じDNA(大陸には存在しない)を持つ人が住んでいたと考えるのが自然です。

考古学的な証拠からも、縄文時代の朝鮮半島と日本の間の交流が示されています。縄文時代、朝鮮半島の南部には日本の縄文人と同じ姿形をし、同じDNAを持つ人々が住んでいたのではないでしょうか」


つまり・・・まだ朝鮮半島に殆ど人が住んでいない縄文時代に、北部九州から縄文人は海を渡り、朝鮮南部に進出し、稲作の伝播や縄文弥生土器などの半島出土品から見られるように、半島南部に倭人文化をもたらしたことは否定しようがありません。


余談ですが・・・これからは、韓国・朝鮮の学者が、歴史を文献(日本書紀や魏書など)の恣意的解釈で捻じ曲げたり、あるいは左翼歴史学者が「渡来人の大量移民があった」とする結論ありきの前提で、大陸の歴史に合わせて、遺蹟の年代を繰り下げる(捏造する)という分けには行かないだろうと思います。

彼らが歴史を捏造し、それを政治利用し、あるいは在日朝鮮人による不当な利権獲得の道具としてきた過去を思えば、考古学的データの分析技術の進歩は、日教組教育により誤った歴史認識を植えつけられてきた戦後世代への啓蒙に、大いに寄与することだと思います。
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2010年07月13日

縄文人は朝鮮半島に進出していた。

最近の考古学や遺伝子の研究から、朝鮮半島より早くから稲作(日本では縄文時代、約6千年前から陸稲が栽培されていた。今日では遺伝子の研究から、稲は日本から朝鮮半島に伝播したことは周知の事実です)を行っていた縄文人が、約千年を掛けてその食生活の変遷から、骨格が大きく変貌し、弥生人へと身体的特徴を変えて行ったことが分かってきました。また遺跡の発掘調査からもこのことが裏づけされています。

今日の考古学では、最近の発掘資料から、弥生時代に大陸から渡ってきた渡来人は、年に2,3家族ていどでしかなく、シナ大陸や朝鮮半島から「渡来人が大挙して押し寄せてきた」というのは、遺伝子研究や発掘資料の少なかった過去のデータからの誤った認識だったと考えられています。

繰り返して言えば・・・最新の遺蹟の発掘調査から分かった事柄は、渡来人の数はごくわずかで、倭人の歴史に影響を与えるほどではなく、縄文人や弥生人の社会の隅で共存しながら細々と暮らし、やがて倭人に人種的にも文化的にも吸収されて消えてなくなったという事実です。

したがって、弥生人=渡来人が稲作を持ち込み、縄文人を駆逐していったとの説は誤り。実情は、「朝鮮半島からのボートピープルが見たものは、500年以上も水田耕作を行い文化的にも進んだ倭人(弥生人)の社会だった」と言うことです。

世界の四大文明より数千年も早く土器を作り、これまた最古の漆器を発明して人類の食文化に画期的変革をもたらし、世界では新石器時代にしか存在しない磨製石器を旧石器時代に作り上げた縄文時代の日本はまぎれもなく、文化の先進的地域でした。

時代を下っても同様で、弥生人(倭人)は朝鮮半島南部にまで進出し、倭人文化(糸魚川のヒスイ製勾玉、前方後円墳など)を持ち込んだことは考古学的事実です。

だから・・・古代の中国の文献に「新羅や百済は、倭国が大国だから朝貢している」と書かれているのでしょうし、数代にかけて新羅の王は倭人だったと言う事実があるのです(これは朝鮮最古の歴史書・三国史記に書かれています)。

参考・・・【三国史記】は、高麗17代仁宗の命を受けて金富軾らが作成した、三国時代(新羅・高句麗・百済)から統一新羅末期までを対象とする紀伝体の歴史書。

縄文人から引き継がれた日本人特有の遺伝子が、朝鮮半島にもあるのは、倭人の半島南部進出で原住民との混血が進んだからです。百済など朝鮮半島南部の朝鮮人が、倭人の文化的政治的影響下にあったことは否めない事実なのです。


古代日本と朝鮮に関心のある方は・・・下記の書籍を読んで見られることをお勧めいたします。

【日本人ルーツの謎を解く―縄文人は日本人と韓国人の祖先だった!   長浜 浩明 (著) 】
http://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%84%E3%81%AE%E8%AC%8E%E3%82%92%E8%A7%A3%E3%81%8F%E2%80%95%E7%B8%84%E6%96%87%E4%BA%BA%E3%81%AF%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%A8%E9%9F%93%E5%9B%BD%E4%BA%BA%E3%81%AE%E7%A5%96%E5%85%88%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F-%E9%95%B7%E6%B5%9C-%E6%B5%A9%E6%98%8E/dp/4886563430/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1278905863&sr=1-1

第1章 司馬遼太郎・山本七平の縄文・弥生観は失当だった。
第2章 縄文時代から続く日本の米作り。
第三章 縄文・弥生の年代決定に合理的根拠はあったのか
第4章 反面教師・NHK「日本人はるかな旅」に学ぶ
第5章 もはや古すぎる小山修三氏の「縄文・人口推計」
第六章 机上の空論・埴原和郎氏の「二重構造モデル」
第7章 統計的「偽」・宝来聡氏の「DNA人類進化学」
第8章 ためにする仮説・中橋隆博氏の「渡来人の人口爆発」
第9章 「Y染色体」が明かす事実
第10章 言語学から遡る日本人のルーツ

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2010年04月12日

進んでいた日本の旧石器時代

ヨーロッパの考古学会では・・・「磨製石斧の出現」を持ってして新石器時代と位置づけている。約1万2千年前以降のことである。

ところが・・・驚く事に、日本ではこの砥石で石器を磨いて仕上げる技術が、すでに旧石器時代の3万5千年前から始まり、磨製石斧が製造されていた。 

なんと、当時の世界では存在しないはずの磨製石器が、約2万年も早く日本には既に存在していたということだ。

局部磨製石器.jpg

現在では北海道から奄美大島までの全国約200の旧石器遺跡から、650点以上の磨製石斧が出土している。(【人類がたどってきた道】生物人類学・古人類学者海部洋介著・・・・参照)

海部氏によれば、日本の磨製石斧(刃の部分を研磨しているところから、局部磨製石器とも言う)は、世界最古であり、かつその出土数に於いても他地域を遥かに凌駕していると言う。



ところで・・・この旧石器時代の磨製石器は、中国はおろか、朝鮮半島ななどの周辺地域では出土例がない。

この他にもナイフ形石器、台形石器、独自の石刃製作法である湧別技法など、日本列島で独自に発達した石器やその製作法が存在すると言う。

旧石器時代から日本は、当時の先端技術である石器の製作でも、中国を凌駕していたと言う事だ。

磨製石斧は、その後、金属性の斧が普及するまで木の伐採や加工に使われた。この石斧は硬い木(栗)などを切り出すのに適している。(杉など柔らかい素材では、木目がつぶれて加工できない)

古代の日本で栗の木が使われたのは、石斧で加工が出来るという以外に、栗の木は土中でも杉などと違い腐食しにくく数百年も柱として使用できるからだ。

(柔らかい杉が建材として使われ始めたのは、西アジアから伝わった新しい建築方法、石の上に柱を立てる基礎工法と鉄器が中国を経由して伝わってからである)

つまり・・・旧石器時代から日本は、早くからオリジナルな文化が存在し、世界最古の縄文土器による煮炊き文化と磨製石斧による建築技術やその他の狩猟などの石器文化は、中国よりも遥かに進んでいたと言うことだ。

(その後の中国文化の発展は、西アジアからの青銅器文化や鉄器文化の伝播と農業技術の導入抜きには考えられない)
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2009年07月15日

「漢民族の歴史を中国史に塗り替える」中国共産党の偽史と少数民族支配の欺瞞

漢民族が、周辺の異民族を感化し中国文明を作り上げてきたというのは歴史的事実に反する。実情は異民族に征服され、統治されることでその異文化の恩恵を受けて漢民族は進歩できたのだ。

事実、漢民族が中国を支配した時代はその歴史の約1/4程にしか過ぎず。秦や元などの異民族が支配する時代にもっとも文化的な発展をしている。

(秦人はもともと、甘粛省の草原の遊牧民「西戎」である。ちなみに唐の高祖・太宗とも鮮卑であり漢民族ではない。彼らはその姓を「李」といいその始祖を李玄盛といい、今の甘粛省の人だ)

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地図参考・・・【甘粛省】 中国大陸の北西に位置し、西に新疆ウイグル自治区、青海省、北に寧夏回族自治区、内モンゴル自治区、南に四川省、東に陝西省と接している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%98%E7%B2%9B%E7%9C%81

つまり、歴史的に漢民族(実は諸民族の混血種)の支配する中原(黄河中・下流域)とは、異民族(秦など)が支配する広大な地域の一部でしかなかった。異民族に支配されることで、その領土が拡大し、文化が発展してきたというのが中国の真の歴史だ。大都(今の北京)を作ったフビライにしても、支那(中国)はその支配する広大な地域(チベット・モンゴル・ウイグルなど)の一部でしかなく、彼は支那を管理するために定期的に大都を訪れるだけで、そこから南(支那の地)には一度も足を踏み入れたことは無い。

秦や元、或いは清にしても、その政治システムや文化は漢民族が作り上げたものではない。支那は支那の政治システムに任せただけで、その上にモンゴルなど支配民族の統治システムがある。(元では、漢民族の身分は色目人[イラン人など]より格下で、金の支配下にあった河北の漢人が第三番目、南宋の支配下にあった南の漢人は第四番目であり、中原「中華」に行くほど身分が低い)

支那の語源でもある異民族の秦によって初めて中国大陸が統一され、支那人(現在漢民族と言われている混血民族)が人為的に作り上げられたが、そのシナ人は、周知されているように、異民族国家の乱立期(五胡十六国から南北朝にかけて)に戦火による大虐殺でその人口が約700万人まで激減した。

それ以来漢民族に代わって蒙古、系ツングース系、チベット系、南方系が中原を占めるようになる。これら混血民族の子孫である今の支那人は、勝手に漢民族だと自称しているに過ぎない。

結論を言えば・・・中国の歴史とは「漢民族の歴史」ではなく、異民族の歴史を継はぎした物に他ならない。


その異民族の歴史と文化の継承してきたに過ぎない中国を中国政府(中国共産党や国民党)はどう見てきたか。

中国共産党の見解は右記の通りである。「伝統的には中華と夷狄は区別されていたとしても、近代国家建設においては、中国という枠組の中に、そこに住む民族はすべて『中華民族』として融合されてきた」と言っている。

だから、漢民族はもとより、チベット民族、モンゴル民族、ウイグル民族やその他少数民族は中華民族の一員だとの主張なのである。

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(ウイグルの少女)

しかし、この論理は支配される少数民族(決して少数ではないが)にしてみれば、それは漢民族(中国共産党や国民党)の身勝手な言い分に過ぎない。

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(インド西部ムンバイの中国大使館前で警官に取り押さえられるチベット人青年)

事実、元朝のみならず清朝でもウイグルやモンゴル、チベットは決して中国(支那)の一部ではなかった。支那の統治に関しては、科挙により役人になった者が行政に参加できたが、それ以外の帝国全体の統治システムは満州人(清の民族)の仕事であり、中国人(支那人)は参加できなかった。(その税制も5つの国ではまったく違う制度を設けていた。モンゴル帝国の後継者である清朝では、モンゴル人からは一切税金を取っていない)

また、辛亥革命の基本的理念は、光復革命(野蛮な異民族支配を打倒し、優れた漢民族による異民族支配の確立を目指した革命)の実現であり、孫文でさえ自惚れにすぎないの中華思想から、優秀な漢民族が中国を統治するのが望ましいと述べている。

異民族(モンゴル・チベット・ウイグル)の側からすれば、漢民族が光復革命を掲げて清朝から独立するのであれば、我々も同様に清朝からの独立を目指すことが出来るということになる。

実際、モンゴルはそう宣言し、ソ連の支援のもとに中国共産党の支配から辛くも抜け出すことが出来た。


今日の少数民族の悲劇の根源は、孫文の「建国方略」にある。彼は中国の実業振興をうたい文句にモンゴル、ウイグルへの漢民族の殖民を推進し、鉄道網の整備を計画推進した。その目的はウイグル自治区などの鉱物資源の獲得である。

いわく「モンゴル、新疆への殖民は、鉄道計画を補助するものである。(中略)移民の数は1千万とし、人口が多い省から西北地域へ移し、自然の富源を開発すれば、商業活動の利益があまねく広がってく」・・・つまり人口の少ない少数民族の地域に漢民族を送り込み、漢化させるという構想だ。

【漢民族のウイグル人弾圧】
http://www.google.com/imgres?imgurl=http://img.youtube.com/vi/zz4PwTMnXVY/2.jpg&imgrefurl=http://youlist.jp/v/V25huimxsGg&usg=__dPJMMFI4H2O3ClQNGU04eCFtWEc=&h=97&w=130&sz=4&hl=ja&start=5&tbnid=iSCndEtf1I2whM:&tbnh=68&tbnw=91&prev=/images%3Fq%3D%25E3%2583%25A6%25E3%2583%25BC%25E3%2583%2581%25E3%2583%25A5%25E3%2583%25BC%25E3%2583%2596%25E3%2580%2580%25E3%2582%25A6%25E3%2582%25A4%25E3%2582%25B0%25E3%2583%25AB%25E6%259A%25B4%25E5%258B%2595%26hl%3Dja%26sa%3DG

民主党や自民党中川秀直氏などが推し進める「移民の1千万人受け入れ計画」の数字と「孫文の移民計画1千万人」の数字が同じと言うのは、何か因縁を感じるものがある。
中国の侵略は・・・漢民族の移民を受け入れる事から始まると言うのは、歴史が証明している。



「中国歴代戦乱編年史」柏楊氏によれば、中国は有史以来、現代に至るまでの4千年間、毎年必ず国内のどこかで戦争があったと言う。


中国では戦乱のたびに、人々は食料を奪われ、都市機能や利水設備が破壊されて農地が荒れ果てる。その上大旱魃が繰り返し襲うので、飢饉のたびに木の根から昆虫までを口にしてもまだ足りず、人肉を食うのが当たり前の世界で生きてきた。(事実、中国ではそれが、何千年も食文化として継承されてきたし、孔子は塩漬けの人肉が大好物だった)

kousi.png


そのため「中国人はいつも不安を感じているので、他人を一切信用することがなく、もちろん政府も信用してはいない。今日一日が無事に過ごせれば良いと思うと同時に、少しでも良い食事と仕事を与えてくれる為政者であれば、国民党であろうが共産党であろうが構わない。そんなことよりも、自分の生活がまず第一である。そして、他人にたいしては決して弱みを見せてはならず、逆に相手の弱みに付け込まなければならないと考え、絶えず緊張している方が立派な人物だという評価を受ける」という。

これでは、日本人の美徳「道徳的であること」や「謙譲の精神」などは、中国人に理解されるはずもなく、かえって小馬鹿にされ付け込まれるだけだろう。(外交問題の一つである尖閣諸島の両国の対応をみれば自明の理そのものだ

もう学ぶ物なしとして遣唐使を廃止した菅原道真の英断には、敬意を表したい。恐らく彼はこのような中国人の価値観が、日本人には相容れられない程はかけ離れていることを理解していたに相違ない。

引用文献・・・「中国の異民族支配」横山宏章著・集英社新書
       「侵略と戦慄・中国4千年の真実」杉山徹宗・祥伝社
        その他
posted by かたばみ at 10:04| Comment(1) | TrackBack(0) | 偉大なる先人達 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月12日

本当に鉄の製造技術の伝播は、朝鮮半島が先だろうか?

最近放映されているNHK特集「日本と朝鮮半島2000年」では、あたかも製鉄技術が朝鮮半島からもたらされたかのように印象操作された放映がなされていた。それは、果たして事実なのだろうか?

この番組・・・ディレクターが田容承という韓国人だと言うことを知る人は少ないだろう。何故NHKは、日韓で認識の違いすぎる両国の歴史問題を韓国人に任せるのか。そこにある種の悪意に満ちた意図を感じずにはいられない。

戦後NHKの歴史番組が一貫して、中立的立場からは程遠い左翼史観で描かれてきたことは周知の事実だ。戦後の日本が過度に左傾化してゆく過程は、以下の著書「新歴史の真実」に詳しい。


今回の明らかに中国共産党の意向に沿ったNHK特集「ジャパン・デビュー」に関しては、東京・大阪・名古屋・札幌・福岡の各都市で台湾人や市民によるデモが行われ、ネットでは公共放送の公共性が確保されるまでは受信料を拒否する運動が広がっている。

【NHKに抗議】中国目線で作られた、反日 台湾番組【JAPANデビュー】
http://www.youtube.com/watch?v=C5CaPdMV-hw&feature=related

NHK「JAPANデビュー」に抗議する国民大行動・第2弾(1/3)
http://www.youtube.com/watch?v=pXfkWH9ZSzs
NHK「JAPANデビュー」に抗議する国民大行動・第2弾(2/3)
http://www.youtube.com/watch?v=wc8UutVd8so
NHK「JAPANデビュー」に抗議する国民大行動・第2弾(3/3)
http://www.youtube.com/watch?v=j_QOie7J8QY




さて本題・・・実際には鉄器の製造技術は、日本の方が朝鮮半島より古いと思われます。事実、日本では弥生時代あるいは縄文時代に遡る遺跡や出土品(鋳造の板状鉄製品・鍛冶滓)が数多く発掘されているのです。

【遠所遺跡】
http://inoues.net/tango/enjyo_iseki.html
『丹後地方では、すでに弥生時代前期末から中期初頭の峰山町扇谷(おうぎだに)遺跡から鉄器生産に伴う鍛冶滓(かじさい)が出土しており、鉄器の生産が行われていたことが知られている』

板状鉄製品.jpg 

【扇谷遺跡】
http://inoues.net/tango/ohgidani.html
『扇谷遺跡の環濠からは、丹後の弥生時代を象徴するような、「鉄」「玉」「ガラス」が出土している。同じく丹後の弥生の象徴である台状墓も、隣接する七尾遺跡から2基見つかっている。環濠からは他にも、土笛、多数の紡錘車等が出土したほか、鋳造の板状鉄製品(インゴット)、鍛(たん)造の鉄も見つかっている。ガラスの塊、鍛冶滓なども出土している事から、ガラス生産と、低温の鉄製品生産の可能性もある。』

鍛冶滓.jpg

扇谷遺跡.jpg

潮見浩『東アジアの初期鉄器文化』・・・参考文献

朝鮮には,まず紀元前3世紀ごろに鉄器が流入する。それは,中国の東北部からもたらされたものと思われる。その後,漢代の楽浪郡の設置以後に,その鉄器文化の影響を受け,朝鮮独自の青銅器類が鉄器にとってかわられる。

 日本への鉄器の流入は,すでに,弥生時代の初頭から始まっていたとみられる。熊本県斉藤山遺跡からは,中国では戦国時代から前漢代にみられるものと同様な形制をとる鉄斧が出土しており,それは最古の弥生式土器である板付 I 式土器と共伴している。その他にもいくつかの弥生時代前期の遺跡で鉄器の出土が知られている。ただし,この時期には,実用利器としてはまだ石器が主流であったと考えられる。また,分布地域は西日本に限られる。弥生時代中期以降は,鉄器の分布はさらに広がり量的にも前期を大きくうわまわる。鉄器の生産は,九州では中期の前葉からはじまったと考えられる。しかし,いまだに石器が実用具の主流を占めていた。弥生時代後期には,鉄器の出土例は激増する。特に,西日本では石器類が姿を消し,実用利器が鉄器に交替したことが推察される。古墳時代前期には,古墳から多量の鉄器が出土し,一方では住居から出土する場合はまれであり,鉄器の集中所有化がうかがわれる。弥生時代後期における鉄器の普及は,生産力の進展とともに,階級の分化・首長層の成立の基盤となった。後期には,鉄器の大量副葬はみられないが,各地に築造された多数の古墳には鉄刀・鉄鏃などが普及しており,住居からも農工具の出土が増える。鉄生産の各地への拡大が予想される。』


また鉄器の伝播に関しては・・・『アムール川流域では紀元前1千年紀のポリツェ文化に,鉄器が存在している。放射性炭素年代では,前980年という数値が提出されている。ポリツェ文化の鉄器には,斧・刀子・鉄鏃・小札・釣針などが存在している。実際の年代は,やや下る可能性が高い』とあるように、日本列島の北からのルートも考えなければならない。

ロシア考古学界では、沿海州地域の鉄器時代の起源をBC9世紀以前にさかのぼるとしており、今後ポリツェ文化や沿海州南部バラバシ村の住居址〈鉄斧と鉄鏃を含めた9点の鉄器と土器を含めて2000点余りの遺物が出土〉の詳しい発掘調査の結果が待たれます。


つまり日本には・・・稲作が朝鮮半島より早く長江流域から伝播したように、鉄器とその製造技術は朝鮮半島より早く、南北のルートからもたらされて可能性が大きいのです。

<strong>任那日本府(朝鮮半島南部)で鉄のインゴットが多く出土し倭国が鉄をそこから求めたのは、単に良質な鉄鉱石が取れたからに過ぎないのではないでしょうか。

朝鮮半島南部の倭人による鉄鉱石採掘は、倭人にとって現代日本人が先端技術に欠かせないレアメタルを後進国で採掘するようなものと考えられます。

つまり、倭人が朝鮮半島南部でインゴットを現地生産し、国内に流通させたと考える方が妥当でしょう。
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2009年04月23日

中国への古代東南アジア文化と西アジア文明の影響

日本の歴史を考える場合、まず中国から文明が伝わったと教えられます。しかし太古からの文明の伝播を考えるとき、果たして本当に【中国が起点】でいいのでしょうか?

以下・・・雑学風に思うまま、取りとめもなく書いて見たいと思います。


現生人類・ホモサピエンスは今のヨーロッパやレバント地域(地中海沿岸)に到達するより先に、オーストラリアに殖民して壁画を描くなど進んだ石器文化を既にもっていました。

ホモサピエンス.jpg
(日本人はるかな旅展・ホモサピエンスの世界進出より地図のコピー)
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/1/1-14.html

この事実を知らない人は結構いるようですが、その海岸狩猟民族のルートはアフリカの悲しみの門(バブ・エル・マンデブ海峡)を通り、アラビア半島の南の沿岸からインドの海沿いに、当時(6万5千年〜8万年前)は比較的陸続きだった今のカンボジアやインドネシア沿岸を経由して、オーストラリアに達するというものです。

人類の足跡10万年全史の著者 S・オッペンハイマーに拠れば、モンゴロイドが派生した大まかな地域は、大雑把に言って現在のミャンマーの当たりのようで、そこからモンゴロイドの南北分岐が始まったとのこと。

当時の地形と現在の地形は、かなり違いがありますが・・・約6万年前にモンゴロイドは、ベトナム・タイ・ラオス・ミヤンマー辺りからメコン川やエヤーワディ川など幾つも北に上る川伝いに北上し、揚子江の源流から下降に掛けて広がり、また一方で台湾から南西諸島を経由して日本列島にまで至り南モンゴロイドとなりました。

その一方でモンゴロイドの別派は、バングラデシュあたりから西回りに川を北上してバイカル湖を経由し、アムール川流域からシベリア全域やサハリンあるいは日本列島にまで達して、北方モンゴロイドとなったようです。

(ちなみに・・・ミトコンドリアの分類から、北方モンゴロイドと南方モンゴロイドの大まかな分布の境は、いまの中国揚子江をその境界としてるようです)

S・オッペンハイマーは、現生人類がその後インド洋沿岸からオーストラリアまで広がっていった速さから判断すれば、最初の現生アジア人は、祖先が東アフリカに住むようになってから7万年のあいだに、何度もイカダや船でわけなく渡っていただろうと言っています。

つまり・・・旧石器時代や新石器時代は、中国大陸よりも東南アジアの方が先に開けていて、航海技術の発達した先進地域だったのです。


日本史では、必ずと言っていいほど文明や文化の伝播は中国を起点に置いて記述されています。しかし、それでは、中国と言えども西アジアの影響を強く受けて発展してきたという、西から文化や文明の伝播があるにも関わらず、その流れを断ち切り、中国が独自に文化や文明を築き上げてきたかのような誤った錯覚にとらわれてしまいがちになるのです。

(日本でさえ正倉院には、西アジアからの宝物が数多く保管されています)
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正倉院

仮に王権の成立期が文明の一尺度だとすれば、西アジアのシュメールは紀元前約3200年前で、エジプトの古王国が約3000年前、インダス文明が約2700年前で、中国の殷はそのずっと後の紀元前1600年前に過ぎません。ユーラシア大陸の端から端までの距離を考えたとしても、千年単位での時間軸で人と物の移動を考えれば、東西の交流は活発であり、先進的文化が西から東進してきたことは否めない事実でしょう。

【シュメール人は、約5,500年前に世界最古の楔形文字を発明し、会計記録などを残していました。これは殷墟から出土した甲骨文字より約4千年も前のことです。

また彼らは、灌漑農業を発達させ、60進法や太陰暦を使用し、天文学や数学などの実用的な学問を発達させていました。これらが数千年の時をへて陸路や海路から中国に伝播していったことは容易に想像できます。

(ちなみに私は・・・旧人類からホモサピエンスが石器文化を引き継ぎ、その文化がアフリカから世界各地に広がったように、「文字の概念」も西アジアから伝播し、甲骨文字の成り立ちに関わっていたのではないかと考えています。

シュメール文字が発明されてから、その後次々とオリエント地方で文字が作られていく過程を考えれば、十分ありうることだと思います。文字の概念さえあれば、ハングルやチベット文字などのように、ほんの数人でまったく新しい文字を考案することは容易なのです)】




閑話休題・・・最初の現生アジア人の子孫でもある縄文人は黒潮を利用して、台湾や南西諸島伝いに日本列島にやってきた現生人類の航海技術を継承し、日本各地に広がり世界最古の縄文土器や同じく世界最古の漆器(現在では漆が日本で生み出されたというのは考古学の発掘と年代測定でほぼ確定的です)などによる煮炊きという食文化や様々な装飾品を生み出して、当時としては世界に類を見ない多様で優れた文化を築きあげました。

これらは、むしろ日本から中国に伝わったものでしょう。


日本で食料採集段階である縄文時代が、世界でも類を見ないほど長く約15000年も続くのは、縄文の森や海の実り豊かな自然と決して無縁はありません。その自然は今も日本列島に息づき、私たちの心を育みそして豊かなものにさせています。


その頃の日本と朝鮮との関係はどうかと言えば、以下のようですね。

考古学者・小林氏によれば・・・「縄文の場合、津軽海峡を含めて一つの文化圏を成している。言葉が通じるから行ったり来たしているんです。ところが、宗谷海峡を通ってカラフトにも行っているのですが、一度も手を結ばない。また、朝鮮海峡については、対馬は日本より朝鮮半島寄りなのにも関わらず、対馬は日本側です。その文化圏の根底にあるのは、言葉の問題です」と言っています。

広開土王碑文.jpg
広開土王碑文

つまり、縄文時代から明確に日本人と朝鮮人は民族が違っていたということです。対馬が朝鮮に属さないというのは、広開土王碑の記述にあるように朝鮮半島の南側が古代から日本の影響下にあった事実を証明する物の一つでしょう。


posted by かたばみ at 09:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 偉大なる先人達 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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