2009年03月21日

古代の日本は孤島か?

多くの考古学者もその誤りを指摘するように・・・日本列島が大陸から離れた孤島だと言う、日本人や中国・朝鮮人が持っているイメージや先入観は明らかに間違いです。


現在でも輸送手段などには海上交通が重要ですが、すでに縄文・弥生時代には海上交通網が、人や物資の輸送手段として現在の人々が考えている以上に発達していました。

(考古学者・大塚初重氏によれば・・・日本は旧石器時代から船あるいは筏のようなものの存在が認められ、縄文時代にはかなりの航海術が発達していたと見られるとのこと。実際に日本産の黒曜石や翡翠や土器が産地から遠く離れた場所、場合によっては大陸から出土することでも明らかです。
 事実、日本産の翡翠は北は礼文島にまで達しており、カラフトや大陸にまで渡った可能性があり、黒曜石はシベリアのアムール川流域やハバロフスクでも出土しているし、南下すれば九州南部から奄美諸島、沖縄以南への海の道が続いていて、縄文人は早い時期から航海術を開発していて海へ進出していたと言います)


世界地図を南北逆さまにしてみれば良く分かることですが・・・日本列島は大陸に連なるように、あたかも内海(日本海)を取り巻く「弓の岬」ような位置にあります。(下はサハリンから日本列島を通り、南西諸島や台湾へと弓のように続いています)

考古学的には・・・日本列島は、大陸の南北をつなぐ架け橋のような存在で、旧石器時代から東西南北から人や物が絶えず行きかっていて、出土品も中国大陸より断然多く、文化的にも相当先進的な地域だったことは否定できない事実なのです。(東は、主に海路で)

jyoumndoki.jpg
(縄文土器)


それに比べると・・・大陸の片隅に位置している朝鮮半島は、西アジアからの文化文明(ゾロアスター教や鉄器や青銅器など)が伝わり漸く発達をしてきた中国からの陸路が整備されるまでは、中国大陸よりも文化的先進国だった縄文時代の日本文化圏の影響を強く受けていたことでしょう。

余談ですが・・・殷が成立するまでの中国大陸は、およそ1万5千年ほど続く日本の縄文時代に比べて、文化的には後進国であったことは土器や石器あるいは骨角器を比較すれば分かります。考古学者・小林達雄氏によれば、中国の石器とか骨角器は余りに貧弱で、日本の草創期に太刀打ちできないとのこと。

中国で土器が作られるのは、世界最古の縄文土器(1万1千年前)より数千年あとのことです。その頃、日本では西アジアより3千年も早く、煮炊用の土器で食事をしていました。(西アジアの土器はお供えもの用で、煮炊きはできません。中国の土器の出現は西アジアよりまだ遅れています。漆も日本起源であることが、最近の考古学研究で明らかとなっています。)

urusi.jpg
(漆)

中国が発展してくるのは、西アジアでシュメールによる王権が成立して、その約1500年後に殷の王権が出来て、当時の文化の先進的地域である西アジアから鉄器や青銅器が伝わってからのことです。


参考までに・・・西アジアからの中国文化への影響の一例として、鉄器の伝播のルートは下記の地図を参照してください。。

【日本のたたら製鉄の源流を考える】
http://mutsu-nakanishi3.web.infoseek.co.jp/iron4/0802road.htm
尚、詳しくは・・・このホームページから【東アジアへの製鉄技術の伝播 年表調査 まとめ】をご覧下さい。


ちなみに、古代において・・・ヨーロッパに比べて日本を含む東南アジア地域の航海術や人的交流が、太平洋全域まで到達するほど発達していたのは、世界地図を見ればおのずと分かるはずです。

ベトナム・インドネシア・オーストラリア・ニュージーランドを結ぶ線から北の赤道付近には、大は台湾・フィリピン・ニューギニアから、小はミクロネシアからポリネシアまで大小無数の島々があり、仮にベトナム付近からめくらめっぽう海洋にカヌーで漕ぎ出しても、どこかの島々にたどりつくという安心感があるのです。

またそれらの島々の位置関係と地形が古代の航海技術の発達に役立ったことは否めません。 


日本と比べれば・・・古代の朝鮮半島などは、これと言った航海技術もなく、日本やこれらの地域からすれば、大陸にへばり付いただけの僻地に過ぎないのです。


posted by かたばみ at 17:12| Comment(1) | TrackBack(0) | 偉大なる先人達 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月20日

剣道と日本刀のルーツ

韓国では、以下のような記事がしばしば考古学的な検証もされず、ニュースとして掲載されます。

ソウル=聨合ニュース・・・「日本は自国が剣道の宗主国だと考えているが、朝鮮時代の刀を作る技術者らもたくさ ん日本に連れて行かれて、日本に影響を与えた」と日本が必ずしも先ではないと主張した。

350px-Nihontou74[1].jpg

果たして本当にそうなのだろうか?結論から先にいえば、剣術のみならず日本刀は朝鮮半島や中国大陸とは別のルーツを持つ物だと言うのが考古学的見解です。

まず日本刀についてですが・・・
大和朝廷は、縄文人でもある東国の猛者・蝦夷を制圧するために随分と苦労しています。その蝦夷が手にしていた刀が「蕨手刀(わらびてとうです。

k_img_render[1].jpg

日本刀の特徴は・・・切れ味を増すための反りにありますが、この反りの原型となった刀が「蕨手刀」なのです。 中国や朝鮮半島の刀とは違う流れでもたらされた物ですね。東日本を中心に各地で出土し、軟鋼と硬鋼の二重構造を持つ蕨手刀こそが日本刀のルーツなのです。

【日本人 教養 講座 日本刀 】・・・より抜粋
http://www.mokuzai-tonya.jp/05bunen/zuisou/2005/08nihontou20.html

【実際には中国〜朝鮮(百済)〜日本と伝わった青銅器や鉄のルートとは別に,人類史上初めて鉄の精錬技術を見つけ,エジプトやペルシャを破り,一大強国となったヒッタイ(トルコのアナトリア地方〜BC1300頃最盛期・首都ハッテイ)よりパミール・天山北路からゴビ砂漠・モンゴル高原を抜け渤海へ入り,沿海州より日本海を渡って,千島列島・北海道・東北地方と伝わった鉄の刀が有ります。これこそ原始「日本刀」,即ち日本刀の祖形であり,その名を「蕨手刀」と云います】


日本刀とは何かと端的に言えば・・・次の二点に尽きます。
@・・・柔らかい鋼を堅い鋼で包むという製法であること。
A・・・切れ味を増すための反りが付いていること。

考古学では、以下のようにその特徴を比較し、平安期にほぼ確立する日本刀の原型が蕨手刀だとしています。

@・・・柔らかい鋼を堅い鋼で包むという製法であること。
蕨手刀(考古学的考察)・・・「この刀剣は硬い鋼を軟らかい鋼で挟(はさ)み、作刀された」 中国大陸系の直刀にはない二重構造である。 後に鉄心が軟鋼となるのは、その後の作刀試行錯誤によるものだと思われる。

A・・・切れ味を増すための反りが付いていること。
蕨手刀(考古学的考察)・・・「柄と刀身にわずかな反りがみられる長谷堂遺跡の蕨手刀は、弯刀への移行期に位置づけることができます」


余談ですが・・・馬上で操作するために反りをつけたというのは、武術を知らない文献史家の後付けの屁理屈です(直刀でもスムーズに馬上で抜けます)。
昔、歴史学者(文献学者)に、刀は暗闇では納刀できないと言った人が居たらしいですが・・・その類ですね。


以下・・・参考文献と考古学史料

【刀剣美術保存協会】より抜粋
http://www.touken.or.jp/seisaku/koutei.html
「切れるためと曲がらないためには鋼は硬くなければならないし、逆に、折れないためには鋼は軟らかくなくてはなりません。この矛盾を解決したのが、炭素量が少なくて軟らかい心鉄を炭素量が高くて硬い皮鉄でくるむという方法です。これは日本刀製作の大きな特徴となっています」

【蕨手刀 日本刀誕生の背景はらむ 】
http://mytown.asahi.com/iwate/news.php?k_id=03000480902040001


次に日本剣術についてですが・・・

日本剣術の大きな特徴は・・・刀を両手で持つという事にあります。(そのことにより、人体の弱点が集まる中心線を防御すると同時に、力強い撃ち込みで相手を一刀両断にできるのです)

これに対して・・・中国の剣術は、片手で握るのが特徴で、時にはローマ人のように反対の手で盾を持ちいて敵の攻撃を防ぎます。朝鮮人の剣法も中国の流れからきた片手剣ですね。

日本の剣術の優れている点は・・・身体の中心に刀を据えることにより盾を持たなくても日本刀だけで防ぐことが可能な点にあります。これにより攻防一体の攻撃が同時に行えるのです。 


の時代には中国人でさえ日本の剣法を取り入れ「猫刀」と言う名前をつけて学んでいましたし、日本刀を相当数輸入しています。現在、韓国刀として伝えられている刀は、この当時に輸入された日本刀なのです。

剣道の防具や竹刀が作られたのは、江戸時代の日本であることは言うまでもありません。(厳密に言えば、戦国時代から)


韓国人が、それほど日本発祥の剣道が羨ましいのであれば、「新羅の花郎が修練した剣法として知られる本国剣法」とやらの、「実体のない文献に書かれているだけの剣法」の創作流儀で中国より伝わった武具を改良し、それを新しく広めればいいだけです。・・・何も日本人のように袴をはく必要もないでしょう。

韓国人が・・・それをしないのは、実際には本国剣法と言うものはなく、剣で闘うといってもただ闇雲に片手の力だけで蛮人のように振り回すだけで、日本剣法のような洗練された技法を持たないからでしょう。
続きを読む
posted by かたばみ at 19:55| Comment(6) | TrackBack(0) | 偉大なる先人達 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月06日

欧米の心胆を寒からしめた薩摩と伊東祐亨 B

丁.jpg
 北洋艦隊提督・丁汝昌(ていじょしょう)

江戸末期から大東亜戦争にいたるまで、日本は常に国力や軍事力に差がある大国(英国・フランス・清・ロシア・アメリカ)と戦ってきた。

それらの戦争は、左翼史観が巷間に流布しているような、軍部の暴走で始まったわけでは決してない。尊皇攘夷以来、国民一人一人が当時の国際情勢を良く理解し、一貫して国家の安全と自衛のために富国強兵のもと、挙国一致で立ち上がったものだ。これらの国民世論は当時の新聞を見れば明らかなこと。そして、それは欧米列強が行ってきた植民地政策とは大いにかけ離れた戦争と言わざるをえない。


良く考えて欲しい。欧米が仕掛けた植民地戦争は、すべて国力と軍事力に圧倒的差がある小国に対してのみ行われてきた。しかし日本が獲得した朝鮮半島・満州・台湾は国際法に則り合法的に併合したものだ。しかも、それに関してどの国からも反対はまったくない。まして、日本のように植民地にインフラを整備し、その国民に教育を授けた欧米列強は皆無だ

端的に言えば、植民地を獲得するために国家が滅亡しては話にはならないと言う事だ。例えば、桟敷席にタダで居座りたいからと言って、屈強な相撲取りに無謀な喧嘩を挑む人はいないだろう。弱小国家日本の国民が苦渋のすえに決断し、国家の存亡をかけた自衛戦争だったと言うのが、それら戦争の本質なのだ。(東大を始めとする左翼系歴史家の歴史観は、共産主義に都合の良い歴史の摘み食いに過ぎず、丹念な史料研究から見えてくる歴史観とはまったく相容れない。)

松島.jpg
松島

さて、本題にもどり「異能の勝者」の引用から、伊東祐亨と日本海軍の足跡を追うことにしたい

日本は清国海軍力の脅威に対して、『イギリス・アームストロング社に巡洋艦「浪速」「高千穂」を発注する一方、「松島」「厳島」「橋立」を建造し、北洋艦隊の戦闘能力を凌駕することに成功した。「定遠」「鎮遠」の排水量には及ばなくても高性能と速射性にすぐれ、速射砲のほかに機関砲も装備した軍艦をそろえる、というのが、伊東祐亨を海上勤務組のトップとする海軍の狙いであった。』

『清国北洋艦隊との第一ラウンドは、9月15日午前11時半から行われた黄海海戦。「定遠」「鎮遠」を中心に左右に翼を張り出した形の凸横陣に構えた北洋艦隊に対し、連合艦隊は参謀島村速雄の提案した単縦陣の隊形から猛攻に移った。

その戦果は、4隻撃沈、喪失はなし。「定遠」「鎮遠」は満身創痍となって戦闘海域から離脱してゆき、祐亨は大艦主義よりも高速性と速射性を尊ぶ海軍の方が優秀であることを世界に証明してみせた。

そして、戦いの第二ラウンドは、山東半島北岸の軍港威海衛(いかいえい)の沖合いで明治28年1月30日に始まった(威海衛海戦)。「定遠」は、魚雷装備の水雷艇隊によって撃沈され、つづいて威海衛の砲台も完全に破壊された。

連合艦隊の本隊を出動させず、水雷艇隊のみを軍港に深夜潜入させて勝ちを制した海戦は、この戦いが世界海戦史上初である。薩英戦争以来、あまたの砲弾をかいくぐってきた祐亨とその幕僚たちの柔軟な発想力、前例のない戦いを成功させた海兵たちの練度の高さが察せられよう。』


[日清海戦の戦闘のデータ]

大日本帝國          大清帝国

[指揮官 ]
連合艦隊・伊東祐亨中将         北洋艦隊・丁汝昌

[戦力 ]
巡洋艦8               戦艦2
コルベット2               巡洋艦10
砲艦、他               水雷艇

[損害 ]
沈没艦なし,4隻大破             巡洋艦5隻沈没・大破
死傷者298名              死傷者850名


日本軍の武士道精神を世界が瞠目した事例は、枚挙にいとまがない。敗戦にいたるまで日本軍人は、どの国の軍人よりも国際法を遵守していたことは、日本のみならず各国の戦争資料を丹念に紐解けば、おのずと分かることだ。

NHKなどの戦争に関する討論会では、必ずといっていいほど中国共産党に洗脳された中国帰還者連絡会(中帰連)が出演し、いかに日本軍が中国大陸で残虐行為を働いたかという、中国共産党のプロパガンダを繰り広げているが、笑止と言わざるをえない。

しかし、左翼史観よりの報道機関と連係して、近代史に対する深い知識のない者への、このような中国共産党のデマやプロパガンダが、「中帰連」によって何度も繰り返されることで史実として定着していくことは、決して望ましいことではない。


中国帰還者連絡会に関するユーチューブ
http://jp.youtube.com/watch?v=RAdq0kAn24o

検証 旧日本軍の悪行(中帰連による偽り証言の検証)


この海戦でも、伊東祐亨は武士道精神を発揮し「北洋艦隊提督の丁汝昌が、敗戦の屈辱から毒杯をあおいで自殺したと聞くと、天皇の許しを得ずに分捕った運送船の一隻・康済号を敗兵たちに返し、丁汝昌の遺体を乗せて故郷へ送るよう命じた」という。しかも、余裕がなおあるのであれば、康済号には将士を乗せてもよい、とまで言った。


なお、『明治36年10月、海軍令部長としても海軍大臣山本権衛と非公式に会談し、対露海戦ともなれば東郷平八郎を二代目の連合艦隊司令官に指名する、と決めておいたのも祐亨であった』


posted by かたばみ at 16:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 偉大なる先人達 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月04日

欧米の心胆を寒からしめた薩摩と伊東祐亨 A

日本海軍を育てた伊東祐亨の、薩英戦争後の戦歴は『明治維新人名事典』吉川弘文舘によれば「江戸薩摩藩焼き討ちの際、藩邸にあって血路を開いて品川沖に停泊していた薩船翔凰丸に乗船したが、幕艦回天丸砲撃を受けた。

このとき砲手として奮戦し兵庫に入港、兄・祐呂が副艦長をしていた軍艦春日丸に移乗した。明治元年正月、春日丸が幕艦開陽丸と阿波沖に戦ったときには、春日丸乗組員として戦闘に参加した」と言う。

海軍には薩摩藩の出身者が多く「薩摩の海軍、長の陸軍」と言われていたが、中村彰彦著「異能の勝者」によれば、伊東祐亨は、いつの間にか海軍を代表する人物となっていたようだ。以下、中村彰彦氏の著書を引用しつつ記述する。



明治10年代『当時の日本海軍はまだあまりにも貧弱であり、明治13年以降その旗艦とされた最新鋭の「扶桑」にしても排水量は三千七百十七トンしかなかった。対して仮想敵国である清国の北洋水師(北洋艦隊)には、明治17年にドイツ・フルカン社製の二大戦艦「定遠」と「鎮遠」が新規加入。

鎮遠.jpg
清国北洋艦隊・「鎮遠」

これら両艦の排水量はそろって七千二百二十トンにも達しており、朝鮮の利権をめぐって清国と対立しつつあった日本は、いざ海戦となったところで海軍力における劣勢はまのがれがたい、という状況に置かれていたのだ。』


ちなみに、明治19年清の軍艦「定遠」と「鎮遠」が長崎に寄港した時、清国の水兵が市内で略奪・暴行を働いた長崎丸山事件を起こしている。当時清国は、東京湾から首都を砲撃し、九州ぐらいは植民地に出来ると考えていた。福沢諭吉の著述には、その砲撃を心配していた様子が書かれている。

中国人による日本人への侮蔑的態度と条約無視の姿勢は、通州事件など日本人への猟奇的虐殺を引きお越し、我慢に我慢を重ねた日本国民の怒りが頂点にたっして、条約を無視しし戦闘行為に走る中国(漢民族)から、共同租界地の日本国民および外国人を守るための自衛戦(上海事変)へと繋がっていく。


日本の歴史教科書は、意図的に上海事変にいたる経緯を記述せず、一方的に日本が中国を侵略したと述べているが、それは大きな間違いである。

もし仮に、日本が中国を侵略したと言うのであれば、アメリカもまた同様に日本を侵略したと教科書に記述するべきであろう。どうも、日本の教科書を編集する出版社や著者は、いまだにゴロツキ同然の旧共産主義国家には頭が上がらないらし。

東大を始めとして、日本の歴史学者は、左翼史観の持ち主が、その主流だというのが、日本の現実だ。学閥に反する歴史観を述べることは、その後の教授昇格や就職にふりとなるため出来にくい。いわば医師と医局との関係のようなものだろう。これは日本にとって不幸なことと言わざるをえない


ついでに述べると、日本の歴史教科書にはあたかも、欧米列強に蹂躙された弱者の清国を、明治維新を成し遂げた強者の日本が植民地獲得のために戦争を仕掛けたと思わせる記述もあるが、実際には国力に5倍以上の差はあった。日清戦争で日本が清国に勝つまでは、欧米列強といえども軽々に「眠る獅子」と恐れられた清国に、全面的な植民地戦争を挑む度胸はなかった。

軍事力のデータだけでも、その差は下記のとおり。

清国
兵力       962,163人
大砲・機関砲     1、733門
軍艦 82隻    水雷艇 25隻
総トン数     8万5000トン

日本
兵力       240,616人
野砲・山砲など      294門
軍艦 28隻    水雷艇 24隻
総トン数     5万9106トン


このような、曲がりなりにも強国(清国)に日本が植民地戦争を仕掛けたと論じるエセ歴史学者は、太平洋戦争も日本が仕掛けたアメリカへの植民地戦争だと言うべきだろう。彼らのダブルスタンダードには辟易とさせられる。

posted by かたばみ at 17:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 偉大なる先人達 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月01日

欧米の心胆を寒からしめた薩摩と伊東祐亨 その@

Itoh_Sukeyuki[1].jpg
伊東祐亨

日本海軍の基礎を築いた伊東祐亨の元体験は、生麦事件に端を発する薩英戦争である。このとき彼は、沿岸砲台の一つで太鼓役を任じられ、参戦している。

この薩英戦争、中・高の歴史教科書では薩摩側の敗北だったと記述してある。しかし実際には世界の軍事専門家が最も重視する死傷者の数では、後に述べるようにイギリスの方が多い。それ以後、欧米各国に日本侮りがたしとの認識が広がった。日本のもつ潜在的な軍事力に、心胆寒からしまった欧米列強は、もはや軽々に殖民地戦争をしかけることは出来なくなったのである。

薩英戦争は、イギリス側の暴挙からその戦端が開かれた。以下、下記の二冊の書籍の引用を交えながら、伊東祐亨の経歴にそって日本海軍の足跡を追ってみたい。




英国側は、生麦事件の後処理の交渉中に、湾内に停泊していた賠償金より高価な薩摩藩の汽船3隻を拿捕して交渉の切り札とする。薩摩側はこの暴挙を敵対行為とみなし、ついに砲撃を決意する。戦争を仕掛けたのは薩摩ではなく、史実ではイギリス側からだったのである。

「薩摩藩首脳の砲撃開始の命令一下、各砲台が次々と火を吹いた。まず、東洋艦隊中、3番目の備砲、17門を誇るペルセウスに着弾、ペルセウスは、錨を切り捨てて逃げ出した。直後、拿捕した三隻を英艦隊は沈め、一旦、薩摩の砲撃の射程外で態勢を整え、単縦陣で湾の奥へと進出、アウトレンジからの砲撃をするとの予測を裏切り、十分に接近してからの砲撃で、薩摩側の砲座を一つ一つ破壊していった。嵐で海上が荒れていたためもあり、英艦は揺れて完全な性能は発揮できなかったが、それでも薩摩の旧砲は時間とともに沈黙していった。

 しかし、薩摩兵の志気は高く、英艦の全てに命中弾を与え、特に旗艦のユリアラスは、集中砲火を浴び、艦長ジョスリン、副艦長ウィルモットらが戦死した。



「夕刻には薩摩の砲台は全て沈黙し、英国側の勝利は確定した。日没後、英国艦隊は付近にあった船に火をつけ、鹿児島城周辺の民家に砲撃を加えるなどの乱暴を働き、武家屋敷と共に多くの民家が消失した。これらは、非戦闘地域への無差別攻撃であり、近・現代戦であれば明らかに戦時国際際法に違反した行為であることを付記しておく。

翌日、英艦隊は、まだ残っていた薩摩側の砲台を攻撃し、抵抗力を排除して停泊。応急処置をして錦江湾より撤退した。
 
薩摩側は、砲台と船舶のほとんどを失ったが、人的被害は5名の戦死と、13名の負傷。
英国側は、13名の戦死と負傷50名、後に7名が死亡してしまうので、戦死者は20名となる。そしてなにより、虎の子の艦隊が大きく傷つき、これを修理するにはインドまで回航せねばならなかった。

 これを見れば、薩英戦争の結果は、人的被害では英国の敗北であり、英国東洋艦隊をかなり長い間無力化した薩摩藩のその戦いは、悪くても引き分けといったものであった


posted by かたばみ at 17:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 偉大なる先人達 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月29日

護身用グッズの代用 本またはハンドバッグ

もし、貴女が不意にナイフを持った暴漢に襲われた場合。手に本やハンドバックを持っていたら。それを盾にして防ぐことも出来ます。





@ナイフで突いてきた場合
本この様な本(閉じて使ってください)または、皮などのバッグを横から両手で持って前に突き出し(腰を落として重心を低くし、ナイフで突かれてもバランスを崩さない状態で)、それを盾として暴漢の金的に足首の部分で蹴りを入れるのです。


A切りかかってきた場合
基本的には同じです。相手の動きに応じて、ナイフを振り下ろしてくる暴漢の手首に、本の硬い背表紙をぶつけるようにして防ぎ、同時に金的に蹴りをいれます。

もし、金的蹴りが失敗しても、あきらめずに何度も蹴ってください。

もちろん、その際。ゴジラが顔負けするぐらい大きな悲鳴を上げ続けてください。


しばらくぶりで、自分のブログを見ました。わーい(嬉しい顔)
もう、だれも見ていないだろうと思っていましたが、結構アクセスしてくれている人が大勢(?)いて、何だかうれしくなりました。

仕事が急がしくて、書き込む時間的ゆとりがなかなかありませんが、また暇を見つけて投稿させていただきます。



posted by かたばみ at 16:47| Comment(1) | TrackBack(0) | 護身術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月04日

世界的な江戸の精密機械技術

当時の技術を集めた精密機械といえば、時計に代表されることだろう。

ヨーロッパから時計が最初にもたらされたのは、文献によると天文20年(1551年)フランシスコ・ザビエルが、大内義隆に献上したのが最初とされる。また現存する最古のものはメキシコから献上されたスペイン王フェリッペ2世の時計師の銘のある枕時計で、家康に贈られている。

TanakaPerpertualWatch.jpg
(田中久重作「万年時計」)

当時アジアに来たヨーロッパ大使は、精密機械の粋を集めた時計を日本だけでなく、中国や朝鮮にも贈ってヨーロッパの技術力を誇示したようだ。

面白いのは、その時計が朝鮮からも家康に送られたが、この時計は、壊れていて(故障の経緯は不明)、安芸出身の津田助左衛門が修理し、同時に同じものをもう一つ造ったという記述があることだ。

つまり、当時の日本でもヨーロッパの技術の粋を集めて造られた時計ぐらいは、いとも簡単に製造できる技術力と人材があったということに他ならない。

しかし日本では、ヨーロッパ式の定時法による時計は使われようとしなかった。その理由は、日本が季節の変化によって昼夜の時間の長さが変わる「不定時法」を採用していて、それが日本の農業に適していたことによる。

そこで登場したのが、世界でも類をみない巧妙な時計「不定時時計(和時計)」である。それはヨーロッパの時計より複雑な機構を備えていた。

以下、和時計の技術が日本の精密工業にはたした役割を、山本七平氏の著書から引用して見たい。

『当時の時計は「自鳴鐘」といわれたように、時打時計であったから、日常に使えるには「明け六つ」に六つ鐘打ち、「繰れ六つ」に同じように六つを打ってくれないとこまる。というのは時計の針の速度を朝夕で調整し、同時に季節によって調整しなければならない。

だがこの二重の調整は誰が考えても甚だ複雑なことである。この煩雑なことを自動的に行う方法がないものか、と考えたことが、おそらく世界でも珍しい「不定時法時計」すなわち「和時計」の始まりである。


この世界で唯一の、最高の技術水準に達した「不定時法時計」も、やがって押し寄せてくる欧米の工業化の波に飲まれてしまう。明治政府は太陽暦と定時法を採用し、同時にすでに「工場生産」の時代に入っているアメリカのボンボン時計が、無関税に等しい状態で日本に入ってきたからだ。

さらに八十石ぐらいの禄をもらっていた時計師たちは、禄を失って失業した。職業的な技術にたよっていた美術工芸的な和時計は、安価なボンボン時計に比べて、製造コスト的にも存続してゆけるはずがない。


しかし、打ちのめされた彼等が輸入されたボンボン時計を分解した時、その構造が以外に単純であることを知った。たしかにボンボン時計は、和時計よりも進歩したものであったろうが、定時法時計の原理は不定時法時計よりはるかに単純である。

一度は壊滅した和時計もたちまち洋式時計として再生し、失業した藩の時計師たちは会社を創設してボンボン時計を造り出した。工場生産というシステムは劣っていたが、二百数十年蓄積した技術は強い。

日清戦争ごろアメリカ輸入のボンボン時計は14円〜15円だったが、日本製は4〜5円、約1/3の価格である。たちまち日本製はアメリカ製を国内から駆逐し、明治35年ごろには中国・インド・東南アジアからアメリカ製を駆逐してしまった。

明治維新後、幕府暦局御用時計師・大野規周は、大阪造幣局技師として精密機械産業の発展に努力するとともに、大阪に時計製作所を設立し、多くの技術者を養成した。もちろんこのような努力をしたのは彼だけではない。ここで蓄積された伝統的技術と生産方式が結合して、日本の精密工業の基礎ができ、やがてはそれが世界を制覇するのである。

和時計の遺産はそれだけではない。徳川時代の時計師たちは時計だけでなく様々なものを造っている。「消防ポンプ」・今見ても見事な「葉タバコ自動きざみ機」・ロボットの原型ともいえる「カラクリ人形」などなど。

Robot_asimo.jpg

『こう言う時計師が蒸気機関を見ればすぐにその構造がわかる。ペリー来航で蒸気船を知った日本人が、すぐ同じものを造っても不思議ではない。

寛政八年細川半蔵頼直という人が「機巧図案」という3冊の本を出版しているが、その2冊は自動人形、1冊は時計の製作法である。日本がロボット大国になったのは奇跡でもなんでもない。大体、神ならぬ人間の世界に奇跡などあるわけがない。こういう見方はすべて歴史への無知にゆらいする。

このように消防ポンプのピストンも、からくりの複雑な伝導装置もみな時計師が造ったから、明治になって外国の図書でさまざまな機械の図をみると、すぐにそれを造った時計師がいてもすこしも不思議ではない。

彼らは欧米の多くの機械の図を見たとき、すぐにその構造を理解し、同時に同じものを自前の技術で造る能力をもっていたのである。この蓄積がなければ、今日の日本はなかったであろう。



日本の技術力の高さは、なにも江戸時代に限ったことではない。有史いらい日本は物造りにかけては、世界の最先端をつねに走っていた。

時計技術にしても、寡聞にして私は近世の中国や朝鮮で、ヨーロッパと比肩できる自前の時計が造られたという話を知らない。 近代化で中国や朝鮮が日本に大きく遅れをとったのは、決して偶然でないのだ。

posted by かたばみ at 17:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 偉大なる先人達 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月02日

5公5民は農村搾取だったという嘘

今日の歴史教科書は左翼史観に基づいて書かれた物が多い。しかしその歴史観がいかに、観念的で薄っぺらなものかという面白い事例を「日本人とはなにか」山本七平氏の著書から引用してみたい。

nouson-2.gif

かつてある左翼的進歩的教授が、徳川時代の農民は5公5民でどれだけ苦しめられたかを講義した。

だがそのとき一人のアメリカ人学生が質問した。「では日本は、その米をどこへ輸出していたのか」
教授には質問の意味が分からなかったらしく、しばらくぽかんとしていたが、やがて狼狽の色を浮かべて絶句し、立ち往生してしまった。

この”白紙”のアメリカ人の質問は、小学生でもわかるきわめて単純な計算から成り立っていた。徳川時代を通して農民の人口は全人口の84%前後、後期には推定人口3千万のうち、武士7%、工商6%、その他3%とするのが通説である。

すると農民以外の消費者は16%しかない。農民から収穫の半分を取り上げるということは、穀物、主として米の総生産の42%ぐらいを取り上げることになる。

だがこれを、農民以外の16%の人間がことごとく消費することは不可能で、すくなく見積もっても20%ぐらいの余剰農産物を生ずるはず、では一体それをどこへ輸出していたのか、ということである。

鎖国下の米の大量輸出などありえない。とするとマクロで見ると計算があわない。一体どこへ消えたのか。答えられないから教授は立ち往生となる。

本当に5公5民なら、わずか7%といわれる武士階級の困窮などありえないし、「借地」などあるはずもないからである

nousonn.gif

実祭には、「5公5民」は単なる名目に過ぎない。実情も検証せず、形式的な内容が記述された書物を、イデオロギーに染まった目で読むから、素人に指摘されてうろたえるという恥を掻く。教科書に事実誤認の記述を平然とする、左派の歴史家が多いのは、何ともなげかわしい。

「5公5民」の徴税法の基礎となる「検地」についての事情は神崎彰利氏の著書「検地」に詳しく記述されているので興味のある方は読んで見られてはどうでしょうか。
posted by かたばみ at 11:26| Comment(5) | TrackBack(0) | 偉大なる先人達 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月01日

ヒジ打ちの基本 2

H-hiji-a1.jpg

右ストレートが来たら、ダッキングしてよけ。


H-hiji-a2.jpg

そのまま、「発勁」を使って、相手の鳩尾(みぞおち)や胸骨、或いは肋骨などにヒジ打ちをカウンターでいれます。 

ストレートを手で防いで、胸部にヒジ打ちを入れるのは、中国武術・八極拳の一手です。変水流ではこれをボクシング技術と融合させて使います。なぜなら顔にくるストレートは、ダッキングの方が手で防ぐより早くよけれますし、手で払うという余分な動作がないだけに、カウンターでヒジを入れることが可能だからです

発勁は決して神秘な力ではありません。一種の体当たりだと思ってください。発勁を使えばわずか5センチほどの距離からでも、肋骨をへし折ることが可能です。しかしそれを使うのは、正しい体幹(身体)の使い方を学ぶ必要が在ります。

言葉で発勁を説明するのは難しいのですが・・・ヒジ・左肩・右肩を一直線上に揃え、一歩から半歩からほど前足を前進させ、一瞬で全身の力をヒジ先の一点に集めるようにします。

まあ、発勁ができなくてもヒジで体当たりをして、霞で金的を打ちさらに鎖骨へのヒジ打ちや金的へのヒザ蹴りにつなげて見てください。

通常の体当たりをヒジで行うだけでも、相当効果はありますから。
posted by かたばみ at 12:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 護身術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月31日

ヒジ打ちの基本1

パンチに対するヒジ打ちには、幾つかの基本形があります。シャドウ・ボクシングの要領で、一人でも練習することもできますからやって見て下さい。

H-h1.jpg

左構えの状態で、右ストレートが来たら、「ヒジ受け」(ヒジの先端付近での受け)と対さばきで、暴漢のサイドに回り込んで、それをかわします。

H-h2.jpg

そのままヒジで、相手の腕を巻き込むように受け流し。


H-h3.jpg

返すヒジで、そのまま眼窩や鼻の下(人中)を狙って、ヒジ打ちを入れます。

その後のコンビネーションとしては、右手で「霞」を金的に打ち、さらに膝蹴りなどにつなげれば良いでしょう。

変水流体術の手技は、基本的に「霞」と「ヒジ打ち」で構成されています。その重要な手法である「ヒジ打ちの基本」を是非覚えてください。ひじ打ちは、か弱い女性にとってパンチより頼りにできる武器ですから。
posted by かたばみ at 11:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 護身術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする