2007年10月30日

うしろ蹴りへの対処

側頭部を狙い回転してくる「うしろ蹴り」も、簡単にキャッチできます。

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以前に説明した「歩法」を使い。素早く片足を一歩だけ踏み出し、うしろ蹴りの打撃ポイント(もっとも蹴りの力が強くなるところ)より前で、「アキレス腱」から「ふくらはぎ」辺りまでをヒジで受け、同時にもう一方の手で、下から相手の足をすくい上げてキャッチします。

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すぐに捕えた足を、体を捻りながら引き倒し。


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金的に蹴りを入れます。


まったく武道の経験のない方は、少し難しく思われるでしょうが、何度か繰返し練習すればすぐにできるようになります。

友人と怪我に気をつけて、ゆっくりとしたスピードで練習して見てください。 
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2007年10月28日

「目付け」について

「目付け」とは何か。これを一言でいえば「相手の意図と動向を読み取る視線の置き方」と言い表わせるでしょう。

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(動物園写真館さんのブログから)
http://keitaka.exblog.jp/143187/

これがいかに重要なのかという、卑近な例を挙げてみます。

車の運転をする場合、初心者は前方の一点を見つめて運転をしがちですよね。そのため、側面や後ろの情報を見落として重大な事故を引き起こすこともあります。

これに対してベテランドライバーは、絶えずサイドミラーやバックミラーにも視線を向けて、周囲の情報を読み取っています。そのため、急な飛び出しにも、素早く対応し危険の回避がうまくできるのです。


目付けも歩法とおなじく、武道や流派でさまざまな方法が伝承されています。ボクシングや剣道のように顔に視点を置くものも多いようですね。

変水流では、視点を喉仏より下あたりに置いています。何故かといえば、剣道など主に上から攻撃がくる武道と違って、護身術では下から来るナイフや蹴りなどにも対処するため、それらを視野におさめる必要があるからです。

(人間の視野は、ハイビジョンテレビの画面のように、見ることのできる上下の間隔が狭いため、相手の顔に視点を置くと下からの攻撃に対する反応が遅れがちになりやすいのです)

では、喉仏を凝視すればいいのかというと、そうではありません。車の運転のようにそこを基点にして、目配りをすることも必要です。

それ以上に重要なポイントは、喉元に視点を置きながらも、遠くの山を見るように、ボーッと相手の体全体を視野に入れておく事が肝腎なのです。

視野の一隅で捕えた、相手の動きの意図(蹴ってくるのか、殴ってくるのか等)を素早く察知し、反撃につなげることが目付けの役割だと思ってください。


これに慣れると、暴漢の動きを見ながら、視野の一角で逃げ道や反撃に使える道端の棒切れなどを見つけることも可能です。


以上の説明では分かりにくい点が多々あることだと思いますから、補足説明を、戦う事については私と比べ物にならないぐらい強い、百戦錬磨の大先輩にお願いしておきます。

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(宮本武蔵)

以下、五輪の書(宮本武蔵)より引用

「目を付けると云う所、昔は色々在るなれ共、今伝ふ所の目付けは、大体顔に付くるなり、目のおさめ様は、常の目よりも少し細様にしてうらやかに見るなり、目の玉を動かさず敵合近く共、いか程も遠く見る目なり、其の目にて見れば、敵のわざは申すに及ばず両脇まで、見ゆるなり。観見二つの見様、観の目つよく、見の目弱く見るべし、若しまた敵に知らすると云う目あり、意は目に付き、心は付かざるものなり、能々吟味有すべし」


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2007年10月27日

技法の転載に関して

 変水流体術の技法に関しては、独自の技法も多々ありますから、他のサイトやブログに転載する場合、必ず「変水流体術より」と引用元を明記してください。無断で「技」の盗用をすることは堅くお断りします

変水流護身術は後日、出版する予定です。他の雑誌や書籍への盗用は堅くお断りいたします。

ただし、このブログの他の記事については、どのように転載していただいても構いません(笑い)。


これからの技法は、モデル人形では正確に再現でません。したがって今後は、写真撮影をしたものを載せていきますが、技の解説をブログに載せる間隔がどうしても長くなります。ご容赦ください。

このブログに訪れてくれている皆さん、本当にどうも有難うございます。 この護身術が、わずかでも貴女の役に立つのであれば、これほど嬉しいことはありません。
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2007年10月26日

護身グッズ代用 カサ





護身用に使う傘は、できれば折りたたみではない物が最適です。

傘は、バットのように振っても、ほどんど効果はありません。

使い方は、両手で槍のように持ち、顔・胸部・腹・大腿部を狙って突きます。

二・三度、顔を突く真似をすれば、暴漢にもその危険性は十分かりますから、助けを呼ぶ時間稼ぎになりますし、また暴行するのをあきらめるきっかけともなるでしょう。

(最近、暴漢に傘で目を突かれて重症を負った人もいました。大変危険ですから、生命の安全を確保しなければならない緊急時のみの対応策だと考えておいてください。もし、ゆとりがあれば、大腿部を狙うのもいいでしょうね)


折りたたみ傘でも、威嚇効果はあります。もしそれで反撃するのであれば、ナイフのように突くこともできますよね。
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2007年10月25日

歩法

武術や護身術で重要となるのは歩法です。

剣道や柔道などそれぞれの武道には固有の歩法があります。

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遠い間合いから一気に飛び込んで相手を切り下ろす剣道は、体全体を素早く移動させる必要があるため、踵を上げてすり足で動きます。

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投げ技が主体の柔道は、足裏をべったりと地面につけなければ、重い人体をかつぐ力がでません。 また後ろに回ったりする必要があまりないため、動きの遅いベタ足でもいいのです。

このように同じ武道といっても、使われる技法や武器によって歩法は違ってきます。では、素手による護身術(変水流体術)に必要とされる歩法とはどんなものなのでしょうか。

基本的には、ボクシングスタイルと呼ばれるものと同じです。



移動する際に、後ろ足の踵を浮かし、親指の付け根(ボールと呼ばれる部分)を支点にして、そこを蹴リ出すようにして前後左右だけでなく、斜め前後左右に移動し、また反転をするのです。

その際、先に動く方の足は、剣道と同じように「摺り足」で動きます。

変水流では、片足を一歩だけ素早く移動して体さばきをし、防御と攻撃に使います。この一歩が、ナイフなどの攻撃から身を守るための護身術ではとても重要な動きとなるのです。

ダイエットも兼ねて、支点になる足の踵を浮かし、親指の付け根に力を入れてけり、先に移動する足を「摺り足」にして、片足だけ動かして体全体を素早く前後・左右に移動する練習をして見てください。

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2007年10月24日

明の宮廷を震え上がらせた男

何故かNHKの大河ドラマには、お呼びがかからない人物がいる。その男の名は島津義弘。

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(島津義弘)

関が原の戦いで西軍につき、小早川秀秋の裏切りで西軍の諸将が雪崩を打って潰走するなか、「味方の働きはこれまでなり、汝等かくの如き負け戦の時は、死なんと思へばきっとなんとかなるものだ。味方の敗軍するほうへ退がれば、敗兵足まといに成りて自由ならず、幾度も向かう敵を打ち破りて引くべし」と言い、わずか1400名の軍勢で東軍数万に対して敵中突破をはかり、「捨て屈(かま)り」といわれる戦法で、その追撃を立ち切ったつわものだ。

余談だが、この「捨て屈り」は、かの有名なアパッチの酋長「ジェロニモ」も、騎兵隊に追撃されたときにしばしば行っている。ともに人望があり、部下が彼らに対して、畏敬の念を強く抱いていたからこそできる戦法でもある。


秀吉の死をもって終焉をむかえた朝鮮出兵(慶長の役)で、引き上げる日本軍のしんがりを務めたのも島津義弘率いる島津軍だった。

撤退する軍のしんがりほど、困難なことはない。猛追する敵軍の攻撃を一身に受け、味方を安全に撤退させなければならないからだ。


以下、中村彰彦著「異能の勝者」から引用。

『朝鮮と明の連合軍の反撃が日増しに激しさを加えていた慶長三年九月二十八日、明の将軍・董一元は、公称二十万の大群を引きいて北から泗川倭城に接近、泗川倭城の守将島津義弘は、これを見るや周辺の永春や昆陽の出城を放棄したため、これらの出城は明軍に焼き尽くされるところとなった。

しかも、泗川倭城に籠もった義弘の兵力は、わずか一万。たまりかねたその兵のひとりが出撃できない無念を訴えると、義弘は悠然と答えた。

「永春や昆陽の出城を奪ったならば、これを焼くのではなく足場にしてこの城に三度も四度も試し攻めを仕掛け、こちらの陣立てを見るのが真の戦術だ。というのに董一元の軍は永春・昆陽を焼いて大軍を野ざらしにする浅智薄識のやから。まずは三日以内に攻めてこようから、その時存分に戦えばよいのだ」・・・征韓録より意訳。

その通りに明軍は、十月一日早朝に泗川倭城の外構えの柵を破って空壕に侵入・さらに石垣をよじ登って、城門を突破しようとした。

ところがその時、明軍の木砲が破裂してすべての火薬を誘爆させ、人馬ともに大混乱に陥ってしまう。これを戦機と見た猛将島津義弘は、中央から突貫。せがれ忠恒は右翼から、武将種子島久時らは左翼から弓矢と鉄砲による猛攻を開始したところ、明軍は夕方までに三万八千七百余の戦死者を出して潰走してしまった。

この惨敗を報じられた明の宮廷は、「石曼子(しまづ)は、強悍にして、勁敵(強い敵)」と震え上がったといわれている。

島津義弘は、また戦国武将には珍しい読書人でもあり、かれは朝鮮滞在中も「古今和歌集」「千載和歌集」「論語」などを陣中で紐解く教養人でもあった。』

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(東京・渋谷にあるNHK放送センター)

NHKは、小泉・元首相が靖国神社を参拝したおり、中国から国内での放送を禁じられ、安倍・元首相が中国を訪問した後に、その放映が許された。

NHKは、いまだにその事実を放送料を払っている日本国民には知らせることもなく隠したままだ。中国に滞在している邦人は、日本からのニュースに接することも出来ず困惑したことだろう。


尊大に「言論の自由」を叫ぶのは精々日本国内だけ、中国には言論を統制されても抗議するそぶりさえ見せない。それならば、自らを中立的な報道機関と呼ぶのは止めたがほうが良い。中・韓の宣伝(プロパガンダ)会社に受信料を支払うのは、辟易とさせられる。

NHKは、大河ドラマに明軍を震え上がらせた島津義弘を登場させるのは、中国の逆鱗にふれるとでも思っているのだろうか。 

いまからでも遅くはない、島津義弘の爪の垢でも煎じて飲むべきでだろう。





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2007年10月22日

フックに対して 其の3

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暴漢が肝臓や腎臓を狙ってフックやストレートを放ってきたら。腕をV字に曲げて、その頂点あたりで受け止めます。


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すかさず鎖骨や眼窩にヒジ打ちをいれます。もちろん「霞」を急所に打ち込んでもいいですよ。


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さらに髪をつかんで、相手の攻撃を防ぎながら。


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膝蹴りを急所にいれます。
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2007年10月20日

回し蹴りへの対処

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回し蹴りに対処するには、体さばきで右斜め前方に移動しながら、相手の打撃ポイント(打撃力が一番大きい点)をずらし、上の画像のように左ヒジをV字にして、蹴りをブロックしながら、右手で下からすくいあげるようにして足首をキャッチします。

(上段への蹴りも、基本的に同じ動作でキャッチできます)


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すかさず、左手に足を持ち替えます。(難しいことはありません、慣れてしまえば蹴られてから、1秒もかからずできる動作です)


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ここから御馴染みの動作ですね。そうです「霞」で、素早く金的をうちすえます。


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これも、以前に何度も出てきた投げです。覚えていますか? 

繰り返しますが、変水流体術の投げは、投げることが目的ではありません。投げても暴漢が起き上がってすぐに攻撃してくるようだと、意味がないからです。したがって変水流の投げは、次の反撃へのステップと思ってください。


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倒しても、相手の足首を離すことなく。


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股間に土踏まずで蹴りを入れて、止めを刺します。


難しいと思われるかも知れませんが、普通の女性が蹴りに対処するにはキャッチするのが一番なのです。 屈強な暴漢にパンチやキックで応酬しても、より以上に反撃されるだけでしょう。

それよりは、多少痛い思いをしても足を捕まえ、男性の最大の急所を攻撃するほうが確実なのです。 それに暴漢に襲われたらアドレナリンが大量に放出され、蹴られた痛みなどあまり感じないことでしょう(笑い)
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2007年10月19日

数学先進国・近世の日本

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(関孝和)

関孝和に代表される近世日本人の数学の能力が、独自で微積分・行列式・方程式の判別式・ニュートン法・不定方程式の解法・円錐曲線などの高等数学を考案し、西洋を凌ぐものであったことは、よく知られている。 しかし、「和算」が明治維新以降の近代化を支えていたことに、思いをはせる人は案外少ない。

日本の独自の数学「和算」は支那を起源としているが、支那の数学がその後発展もせず停滞していたのに対して、日本では世界のトップレベルまで磨き上げられていく。(日本に入ってくる文物を吸収し、より以上に昇華させていくのは、古来より日本人の特質なのだろう)


以下上智大学・渡辺昇一氏の著書から引用して、先人たちの功績を描いて見たい。

日本人はまったくの自力で微積分の概念に到達していた。また、円周率の計算も無限数列の導入によって、計算式を見出していたのである。

さて関孝和や門下生の発見とまつたく同時期に、ドイツではライプニッツが微分の概念に到達している。また、少し遅れて、イギリスではニュートンが微分の概念に到達している。言うまでもなく、日本の関孝和と門下生、ドイツのライプニッツ、イギリスのニュートン、この三者ともに相互関係はなく、それぞれ独自に微分の概念に到達しているのである。

日本では、ただ残念なことに、政治的に禁じられていたために物理学や化学の実験に、微積分などの数学的発見が応用されることはなかった。

当時の最先端の工学といえば、造船技術が上げられるが、これもまた幕府が諸藩の軍事増強、とくに海軍(水軍)を持つことを禁止したため、巨大な外洋船の建造など考えられず、この方面での高等数学の応用は見られなかったのである。

これに対して、ヨーロッパでは、自然科学の進歩の時代は、そのまま大航海時代と重なっていたために、研究と実践が相互に刺激しあって、共に発展していった。

しかし繰り返して強調しておきたいが、日本人の頭脳は、決して”停滞”していたわけではなかった。事実、関孝和以降も和算の研究は発展しつづけ、しかも研究者の数は増えていたのであった。

幕末や明治には、欧米から多数の「お雇い教師」がやってきて、西欧流の自然科学や工学を教え、日本の近代化に貢献したのは有名な事実だが、ただ一つの例外は数学であった。

日本に流れてくる程度の数学教師は、日本人の目から見れば、みんな幼稚に見えたという記録が残っているが、これは当時の日本人の素直な実感だったろうと思われる



江戸時代、和算は高名な数学者が高等数学の難問をだし、それを解くことが庶民に流行っていた。いまのクイズのような遊び感覚で、数学が日本人に広く浸透していた事実も見逃してはならない。

日本人の多くが基礎教養としてもっていた「和算」の知識が、西洋の知識をいち早く吸収し、急速な近代化をもたらした根源でもある。

これは、高等数学の発達を見なかった中国・朝鮮などアジア諸国では絶対になしえなかったで事でもあろう。


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2007年10月18日

近世日欧比較 2

「近世の日本が、当時の世界でも群をぬいて優れていた」と言う、ヨーロッパ人の記述は逐一書くのが面倒なぐらい多い。

それは、道路などのインフラについても同じことだった。帝京大学教授・高山正之氏のコラム「日本の道路・没落史」から以下引用してみたい。

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(江戸東京博物館)
http://homepage1.nifty.com/eagle_dan/photo117.htm

『10代将軍徳川家治のころ、日本にやってきたスエーデンの植物学者、カール・トゥンベリはリンネの弟子で、オランダの東インド会社に日本の植物研究を依頼されて長崎の出島にきた。そして山陽道から東海道を旅するが、その「街道の水準がヨーロッパのどこより優れていることに衝撃を受けた」(R・レイメント著、地球科学の巨人達)

どう優れているかというと、道幅が十分広く、「人々は道の片側を歩き、欧州のまとまりのない羊の群れのような歩き方ではなかった」。 つまり左側通行という規則がすでにあって、人々はそのルールに従って整然と歩いていたという。

これは特筆すべきことで、ヨーロッパ人は言うに及ばず、仮にも礼を重んじるとされる中国人・朝鮮人などの社会でさえ、このような現代に通ずる交通ルールのマナーは見て取れない。中国人などは、いまでも列車に乗るのに列すら作れない。酷いのになると窓から乗り込む

『そして掃除も行き届き、「道路沿いの生垣はすがすがしく、旅の退屈を紛らわせてくれた」

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(ハインリッヒ・シュリーマン)

幕末にはトロイを発掘する前のハインリッヒ・シュリーマンがぶらり横浜にきて、トゥンベリが書き漏らした東海道の幅員について「十一m幅で」「念入りに管理されていた」と「中国と日本の現状」の中で書いている。

そして訪れた「江戸の街のすべての道はパリの大通りのように砂利で舗装されている。最も狭い道でも幅七メートルはあり、商業地域の平均的な道幅は十四メートルぐらい。大名たちの屋敷町の道幅は二十から四十メートルもある」

ここで比較に出されたパリの道は、そのわすか三十年前、ナポレオン三世の時代に大改造されたばかりで、それまでは「建物のほとんどは立小便や汚水で根腐れを起こして傾き、道路はいつもぬかるんで」(アラン・コルパン、においの歴史)、ルイ九世だったかはセーヌ川のシテ島の辺りの道で落馬して窒息死している。

その新生パリ並みの美しく整備された道が東洋(日本)にもっと古くからあったことにシュリーマンは驚嘆した、というわけだ


また松原久子氏の記述には『日本の道路には、汚物、ごみ、くずの類は一切落ちていなかった。このことは当時日本を旅した数少ないヨーロッパ人の旅行記にも、驚嘆の念をもって記されている。人間と動物の排泄物やゴミが道路や裏庭に積まれたヨーロッパの町々に比べて、あまりに清潔なので不思議に思ったのだ。』 『それは町の道路ばかりではなく、街道でも同様だった。街道には決った間隔で厠(トイレ)が設置されていて、旅人たちが利用した。糞尿は近くの村の農民が取りに来た。厠は農民たちによっていつも清潔になっていた』という。

ヨーロッパで、公衆トイレが設置されたのは、それよりはるか後のことだ。 そのヨーロッパ人が、当時の中国や朝鮮の首都でさえ街道に人糞があふれ汚かったと言うのだから、日本以外はおして知るべしである。

とくに朝鮮の首都は、世界でももつとも汚いとの、そこを訪れたヨーロッパ人の旅行記がある。 とてもじゃないが、当時の世界の首都は、清潔好きの日本人には住めたものではなかっただろう。


これを秩序と安全・公衆道徳(マナー)の行き届いた社会と言わずしてなんと言うのだろうか。これが自虐史観の描く、庶民人が搾取され虐げられていた暗黒の日本社会といえるのだろうか。 もっとも結論ありきの彼らには、事実などどうでもよいのだろが・・・
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posted by かたばみ at 10:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 偉大なる先人達 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする